昔日のフュネライユ

第二話/ザニー

 これは遠い昔の伝説である。
 ある所に、グレイル・バッカスという天才的な悪魔祓いがいたそうだ。彼はどんなに凶悪な悪魔でも、どんなに卑劣な悪魔でも、一切の例外なく裁きを下せた男であった。
 助けを求める民衆の声に、彼は慈しみを持って応えていった。いったい彼はいつ眠っているのだろう、と冗談が交わされるほどに、彼は人々に尽くし、神を愛した。
 しかし、神が彼を愛していたかは、定かでなかった。

 グレイル・バッカスは奇妙な夢を見る。
 彼は一人で何もない、真っ白な空間に立っている。彼は両親の名前を呼ぶ。友人の名前を呼ぶ。愛しき隣人の名前を呼ぶ。しかし返事は一向に返ってこない。彼は「自分が声を発せなくなっているのかもしれない」と不安になるが、その事実を確認する何者かが現れない。
 戸惑っているうちに、ふと、自らの指先が真っ白な空間に満ちている光によって侵食されていることに気づく。
 光は無数の赤子の手の形となり、光の中に彼を引きずり込んでいく。違う、と彼は思う。これは光ではない、と。ここは入り口なのだ。光の内側には闇がただ広がるばかりであり、自分はその永劫の闇の中に落とされようとしている。
 彼は神に助けを求め、叫び続ける。――そこで目が覚めるのである。

 彼は潔癖であるばかりに、次第に眠ることを恐れるようになった。
 グレイル・バッカスが彼の見る悪夢を悪夢と考えるのは、闇を恐れてのことではない。
 彼は「自分の声に神が応えて下さらないこと」に青ざめるほどの恐怖を感じていた。

 強大な悪魔祓いの力を与えておきながら、神は私を打ち棄てたのか?

 眠りを失った人間の心は、影を落としていく。悪魔が彼の苦悩する心につけ込んだのは、それより十三年後のことである。



「葡萄酒を! 葡萄酒を持て!」

 血飛沫が闇の中で僅かに湿った輝きを主張する。
 グレイル・バッカスの狂気に満ちた精神力は、国の四分の一に相当する人間を強制的に悪魔堕ちの状態に追いやった。

「盃を! 盃を持て!」

 彼は、契約の魔法陣の前で酔いしれるように叫ぶ。
 葡萄の蔦のような紋様の短剣を振りかざし、グレイル・バッカスは再び叫ぶ。

「歯車を合わせろ、歯車を合わせろ!」

 彼の周りに生きている者は一人として存在していなかった。
 ただ、人の姿に近い悪魔が口をにいっと開き、彼の魂が穢れていく様を愉快そうに観察しているだけである。 

「見よこの暗き空を! 星一つ浮かばぬこの空を!」

 グレイル・バッカスは泣いている。神の愛を求めて泣いている。
 金の髪は老人のように褪せた白髪に変わっており、痩せた身体は闇と同化していく。
 そして彼の姿が完全に闇の中に消えた瞬間、すべてが上演されていた舞台であったとでも言うように惨劇は終わりを告げた。
 惨劇の前と後で何が違ったのかと問えば、町に死体の山が築かれた、と答えるよりない。
 これが、新月の夜に起きたという、〈グレイル・バッカスの新月事件〉の伝説である。


*****


「つまり、昔話じゃないの?」
「だから伝説って前置きしてるし、締めにも伝説って書いてあるでしょ」

 読解力ないの? と呆れたようにるーくんは俺を見る。
 俺とるーくんことルシアは馬車に揺られて辺境の村、クロスロードに向かっていた。
 地図とガイドブックを参照しても、村のど真ん中にでっかい十字路がある村であることしか、よくわからない。

「いやいや、そういうことじゃなくて。こんな昔話を信じてる村があるのかって意味の質問であって……」
「それが事実なんでしょ。でなかったら僕らが派遣されるわけないじゃない」
「それもそうだけど。ふぅん、バッカス祭ねぇ……」

 胡散臭そうに俺は事前資料を折りたたむ。
 この資料によるところである「グレイル・バッカスの新月事件」をモチーフにした祭りが、バッカスの故郷の村で毎年行われている。
 俺たちの所属するサントラル教会はよほどこの惨劇を失態だと思っているらしく――何せ犯人が教会所属の最上級悪魔祓いだったから――この祭りに合わせて警護のための悪魔祓いを派遣しているそうだ。
 とは言っても最近は形骸化していて、ゆるーい村祭り観光任務として俺みたいな最下級の悪魔祓いにそのお鉢が回ってくることになったのである。

「ま、なんかあっても、るーくんがいたら安心だよねぇ」
「そんなことを言うのであれば、今回の特別手当は全部僕がもらっていいってことだよね?」
「やめて! 最下級悪魔祓いの安月給を知ってるでしょ! 鬼! 悪魔!」

 弾みでそう言ってしまってから、俺はしまった、と思った。

「確かに悪魔みたいなものだけど」

 俺は様子を窺うようにるーくんを見る。

「あ、いや……なんか、ごめん。――痛っ!?」

 すると、ものすごい力で頬を左右に引っ張られた。

「次、気ぃ遣うような真似したらこんなものじゃすまないからね?」

 るーくんの顔は天使の微笑みに満ちていたが台詞が物騒極まりない。
 俺が無言でがくがく頷くとるーくんはフン、と一つ息をついて手を離した。
 痛さのあまりに涙ぐんでいた目をこすり、頬をさすってから、改めて馬車の中で体育座りをした。
 そして、意を決して切りだすことにした。

「あのね、るーくん……俺、ずっと黙ってたことがあるんだ」

 るーくんも俺の態度の変化を察したのか、真面目に聞こうとしてくれている。
 ――今なら、きっと言える。

「俺……俺……」
「……何?」

「酔った」

「…………は?」
「馬車、こんなに揺れるなんて思わなくて……っ、資料読んでたら……余計、酔っちゃった……死ぬ……」
「馬鹿じゃないの!? そんだけ真剣な顔して言うことそれなの?」
「だって、俺、結構真面目にヤバイと思って……うえっぷ」
「ちょ、ここで吐かないでよっ」

 そうやってぎゃーすぎゃーすと喚いているうちに、俺たちはいつの間にか目的地に着いていた。
 と言っても、俺は完全に寝込んでしまっていて、クロスロード村の様子を知ることなく宿に運ばれた。

 ――やっぱり俺は、まだ言えないままである。


*****


「ん、……ここ、は……?」

 まだ鈍く残る頭痛とともに俺は起き上がる。

「ようやく起きたの?」
「ああ、そっか。俺、馬車でダウンして……え、ここ宿?」
「そうだよ。本当に、よくそんな体力で悪魔祓いなんて志望したね?」

 一瞬、懐かしい影を思い出しそうになって慌ててごまかすように笑う。

「いやぁ、あはは。というか、るーくんが運んでくれたの?」
「そんなわけないでしょ」
「だよね、身長差的にぶはっ!」

 るーくんが椅子に置かれていたクッションを遠慮なく投げつけてきた。

「引きずってでも運んであげた方が良かったかな?」
「すいませんでした。……んじゃ、誰が?」
「ああ、それは……」

 るーくんが説明しはじめようとした時に、部屋の扉がノックされた。

「はい、どうぞ」

 俺がそう返事をすると、ティーセットが一式乗ったトレイを持った女性が部屋に入って来た。

「失礼します〜。あ、クラウス様、お目覚めになったんですね〜。良かったです〜」
「あ、えと、」
「何慌ててるのさ」
「いや、だってすごい美人だし」

 その女性は間延びした口調が柔らかで、澄んだ青目に灰色がかった黒髪がまるで人魚姫のような印象をこちらに与える。呆けている俺に向かって一発無言のチョップを食らわした後、るーくんは紹介を始めた。

「ザニー、この人は僕らの泊まる宿の娘さんでエマ。今ではご両親に宿の経営をほとんど任されているんだって。エマ、これはザニー・クラウスという一応教会所属の悪魔祓い。いわゆる僕の雑用係みたいなものだから、気にしないで」
「待ってるーくん! 俺、同僚のラインに立ててないの?」
「馬車でダウンしてたもやしっ子に発言権があると思うの?」
「はい……」
「うふふ、ルシア様とクラウス様はとても仲がよろしいのですね〜」

 エマが微笑ましげにるーくんを見ると、さすがのるーくんも強い言葉をエマに投げつけられないのか、苦い顔をしてから咳払いをする。

「でも、確かにクラウス様はもう少しお食べになった方がいいと思います〜。とても男性を抱え上げた重さだと思えませんでしたもの〜」
「……え? エマ……君、今なんて言った?」

 一瞬、俺の聞き間違いかと思って尋ね返す。

「はい、馬車の到着場所から宿まで、わたくしがクラウス様をお運びしたのですが、とてもお軽かったので、もう少しお食べになった方がいいですよ〜、というお話です〜」
「嘘だよね?ドッキリだよね?」
「ザニー、時に真実は残酷なものだよ」
「るーくん、ねぇ、どういうこと!?」
「つまり君は馬車の到着場所である村の南からこの宿がある村の北側まで、つまり村を縦断する形でエマに運んでもらったんだよ。お姫様だっこで」
「お、おひめ……さ、ま……だっこ……?」
「なんでも、エマは村一番の力持ちらしいよ」
「いや、そういう捕捉はあってもなくても……おひめ、おひめさま……」

 なんだかまた目眩がしてきた。仮にも悪魔祓いである俺があんなか弱そうな女性にお姫様だっこされてる図がなんというか、精神的に耐えられない。
 しかもそのまま小さな村を練り歩く形になっていたとか、もう俺この村歩けないんじゃない?

「ま、ザニーはもう少し休憩してれば。エマ、村を案内してくれる?」
「はい、喜んで〜。では、クラウス様、お大事になさってくださいね」

 この村の民族衣装と思われるスカートを翻して、エマはるーくんと共に部屋を去ってしまった。
 取り残された俺はティーカップに口をつけ、心を落ち着けようとする。

「ああ……お姫様だっことか……お姫様だっことか……うわあああ……」

 ひとしきり嘆いてから、俺は気持ちを切り替える。
 ――ルシアは、気づいているのだろうか。

「似てるんだよなぁ……」

 と、いうよりも元々ルシアが知っているのかどうかもわからないけれど、エマはとても似ている。
 四年前に起きたあの事件の首謀者にして魔女と呼ばれることとなった女、サビエナに。
 るーくんがどういう経緯でサビエナの家にいたのかわからないから、記憶も何もないかもしれないけれど、エマの笑った表情は、兄さんと一緒に微笑むサビエナとどこも変わらない。
 まるであの惨劇が嘘だったかのように、サビエナは兄さんと幸せになって暮らしているのかと錯覚してしまいそうになった。
 その想いが、胸を刺すような痛みとなって俺に圧し掛かってくる。

「それに、この事前資料……」

 自分の腰のベルトに取りつけている葡萄の蔓の紋様が入った短剣に触れる。
 それは、事前資料に掲載されている写真の一つ、グレイル・バッカスの遺した短剣と寸分違わぬものだった。


*****


 わあん、とこどもの泣き声が外から聞こえたような気がした。俺はベッドから窓際へ移動して外を窺う。一人の少女がその周りを取り囲んでいる少年たちに何かを泣き叫んでいる。

「返してよぅ、ミカのお面、返して!」

 ミカという少女の言葉に、少年たちは笑い声をあげる。

「お前みたいなチビが祭りに参加する必要ねーだろ!」
「そうそう。しかもバッカスのお面買ってもらうとかさ、生意気だし」

 話から察するに、あの少年たちが少女の祭りのお面をふんだくる気でいる、といったところだろうか。俺は窓を開けて呼びかける。

「ちょっと、君たち。女の子に対してそういう態度はないんじゃないのー?」

 すると俺に気がついてこちらを見上げた少年たちが馬鹿にしたように返してくる。

「あ、姫だっこの神父だ」
「馬車で気絶するような貧弱神父が口出すんじゃねーよ!」

 かちーん。俺だって資料さえ読んでいなければ無事にここまで辿りつけたはずだったんだ。じゃあ何故資料を読まなくてはならなかったか? この祭りの警護をするためだ。祭りの警護は誰のためにしているのか? ――このクソガキたち含め村人を守るためである。

「ふっ、ふふふ。オーライ、クソガキ。君たちが俺を貧弱と言ったこと、訂正させてやんよ!」

 そして俺は窓をさらに大きく開け放って、そこから飛び降りた。着地は見事成功。突然距離を詰められて少年たちは明らかに動揺している。俺はわざと靴音を響かせてじりじりと彼らに近づいた。

「いいかい、君たち。聖書というありがたーい教えの書かれている本を知っているかね?」

 少年たちはぶんぶんと首を縦に振る。

「あの本にはたくさんの善いことが書かれていてね。そのたくさん書かれている内容を一言で表すとすれば、こうだ」

 俺は少年からお面を取り上げる。

「みんな、なかよく! ……わかってくれた、かな?」

 そう言うと、少年たちは「ちくしょー覚えてろ!」等々可愛らしくも憎たらしい捨て台詞を吐いて走り去って行った。一人おどおどしながらも俺を見上げているミカの方に向き直り、目線を合わせるために座る。

「はい、これ。大事なお面。今度はとられないようにしなよ」
「ありがとう、神父様」
「いえいえ。クラウスでいいよ」

 俺がそうしてミカの頭を撫でた瞬間だった。違和感が胸をよぎり、俺は咄嗟にミカから離れた。バッカスの面を中心として、ミカの周りに黒いもやが吹き出している。ミカの愛らしい瞳は血に染まったように赤くなり、額からは二本の角が生え、背中には黒い翼が見える。

『けけっ、けけけ。来てくれたんだね、ザニー。僕らずっと待ってたんだよ』
「一体何を……ミカから離れろ!」

 俺が短剣を構えると、悪魔はにやにやと笑う。

『バッカスの短剣も、ちゃあんと持っててくれたんだ。あの方もさぞお喜びになるよ』
「あの方? 誰のことだ。お前は何を企んでいる?」
『僕はあの方の人形劇の駒。難しいことはなーんにも知らない。ただね、今年の祭りは楽しくなるよって、それだけ伝えたかったの。じゃ、ばいばーい』

 悪魔が一方的に別れを告げると、黒いもやは霧散した。ミカが倒れそうになるのを、俺は抱きかかえる。そして、そっとバッカスの面の裏を見た。

「これは……悪魔召喚の魔法陣?」

 赤い線で印字されていたのは、明らかに呪術用の魔法陣である。俺が驚いていると、ミカが小さく息を漏らして、目を覚ました。

「あれ、私……」
「良かった、気がついた? ミカ、少し教えてほしいことがあるんだ」
「なぁに?」
「このお面、どこで手に入れたの?」
「うんとね、お面工房があってね、そのお店で買ったの」

 俺は彼女から見えないようにお面の魔法陣の線を切り、何事もなかったかのように渡した。魔法陣は一部さえ途切れていれば、機能することはない。

「へぇ。お面工房って、一軒だけなのかい?」
「うん。クラムカランさんのところだけだよ」
「そうなんだ。教えてくれてありがとう。お祭り、楽しみだね」

 礼を言ってミカと別れ、俺はるーくんとエマを探しに走りだした。


*****
 

「つまり、そのお面工房の人間が村中に魔法陣をばらまいてるっていうわけ?」

 るーくんとエマを見つけ、少し気になることがあるので先に宿へ戻っていてほしいとエマに伝えて、るーくんと共に俺はクラムカランという人物が開いているお面工房を目指していた。

「その可能性があるんだよね。いや、考えすぎならいいんだけど……」

 俺は悪魔と会話をしたことをまだるーくんに言いだせずにいた。あの悪魔は俺の事を「ザニー」と呼んだ。とすれば、もしかすると“弟”の出自に何か関係しているのかもしれず、迂闊にその情報をるーくんに与えることで俺と“弟”の関係に気づかれるのも、俺は避けたかった。

「でも確かにそれが本当だとまずいことになるよ」
「え?」
「さっきエマから聞いたんだ。今年からバッカス祭の前日に劇が開催されるようになったんだ」
「前日……って、今日じゃん!」
「教会への情報が間に合わなかったみたいで、僕も初耳だった。しかもその劇の提案者がクラムカランって青年だって」

 うわぁ、そいつ真っ黒だ、と俺は頭を抱えながら、角を曲がる。すると、

「そしてお面を持ってご来場してくださったお客様には、甘いお菓子をサービス!」
「う、わっ!?」

 黒いもやでできた槍が俺のすぐ傍の壁を直撃した。

「御機嫌よう、神父様。きっと私にご用があると思いまして、お待ちしておりました」

 トカゲのような瞳をした青年が、にこやかに微笑みながら俺たちの正面に立っている。そして周りを取り囲むお面を被った村人たちの姿に俺たちは息をのむ。彼らは人型を保ちつつも異形のものに変化しており、正気であるようにはとても見えない。

「紹介が遅れてしまいました。私がクラムカランでございます。そして周りにいらっしゃるのはこの劇におけるエキストラの皆様、といったところでしょうか」
「だったら主役が誰か知りたいものだね」

 るーくんが顔をしかめて、クラムカランに尋ねる。するとクラムカランは嫌味ったらしく笑って言った。

「それは勿論、そちらの……ザニー・クラウス様でございます」
「……え?」

 るーくんが虚を突かれたように俺を見た。

「私は悪魔に身を捧げただけのただの人間でございますから、深い事情は感知しておりませんが、聞くも涙! 語るも涙! の物語ではございませんか」

 俺は黙れ、と唸るように言った。自分でも驚くぐらいに冷たい声が出ていた。それでもクラムカランは物語の語り手のように朗々と話し続ける。

「優秀な兄を慕う弟! 悪魔に殺された兄に代わり、自らを屠ったザニー・クラウス! 兄が庇った少年との旅路に何を想うのか?」

 クラムカランの笑い声を聞き、ルシアは呆然と呟いた。

「クラウス………………ハレルヤ・クラウス…………?」

 俺は叫びながらクラムカランに向かっていく。

「黙れって言ってんだろうが――!!」

 そうして、短剣を抜いた瞬間だった。がくん、と身体の力が抜け、俺はその場に跪いた。

「なん、で……」
「ザニー!」

 周りの悪魔たちが一斉にルシアへ攻撃を始めた。ルシアが俺の名前を何度も叫んでいる。いや、違う。違うんだ。それは弟の名前なんだ。ハレルヤは死んだりしない。死んだのは弟のザニーなんだ。――Dusty Zanyは悪魔の子。頭の中に唄が流れ込んでくる。
 そして急に唄が止み、視界が闇に包まれた。目の前に立っていたのはクラムカランではなく、金髪が褪せたような白髪をした、一人の男だった。

「ようやく歯車が、合わさった」

 男はにいっと口元を歪めて嗤った。その男を俺は知っている。
 ――グレイス・バッカス。この祭りで鎮められるはずだった男。

「主よ、憐みたまえ」

 血の涙を流したまま嗤うその男が、手をのばしてくる。骨そのもののような手から俺は逃れようとするが、身体が動かない。まるで絃で絡め取られた人形のように俺の身体は支配されていく。
 意識があるのに何も考えられない。身体だけが勝手に動き、誰かに向かって短剣を振るっている。誰かはずっと道化の名前を呼んでいる。ザニー、ザニー。目を覚ますんだ、ザニー。墓の下に埋められた十字架が、鈍くまた光を放とうとしているのだろうか。違う、ピエロなんか必要じゃない。必要なのは祝福だ。それなのにまだ誰かは叫んでいる。目を覚ますんだ、ザニー。俺は鬱陶しくなってきて、その誰かを抑え込んだ。赤い瞳が俺を見上げる。そしてそいつは、問答無用で俺の腹を蹴り込んだ。


*****


 兄さんとの最後の約束。小瓶に閉じ込めた、真っ赤な約束。
 サビエナの家で血に染まった兄さんに、“僕”はとあることを指示されていた。

「ザニー、よく聞くんだ……俺の血を、この小瓶に入れて持っていろ……」
「なんで、そんな遺言みたいな言い方するの、兄さん。嫌だよ。兄さんは助かるんだ!」
「言うことを聞くんだ、ザニー。悪魔祓いの身体は、悪魔召喚の贄にできる……いつか、お前を助けることができるかもしれない……」

 血まみれの手で兄さんはポケットから小瓶を取り出し、僕に握らせた。

「ずっと一緒にいれなくてごめんな、ザニー。……でも、俺はたとえ死んだとしても、お前のことを……守ってやりたいんだ」

 いつか来る日のために、と兄さんは言った。赤い雫が小瓶に溜まっていく。ぽたり、ぽたり。兄さんの命が小瓶に落ちていく。

 その事件の後、悪魔祓いの身体を持ち出して儀式をすることは「禁呪」とされていることがわかった。過去にその儀式が元で、痛ましい事件が起きたらしい。僕はその事実を知って、誰にも小瓶の話をしなかった。黙っていれば、兄さんはずっと僕の傍にいてくれる。そう思ったのだ。


*****


 パキッ、とガラスが割れる音がして、俺は吹っ飛んだ。受け身も何も取らない身体がそのまま地面に転がる。誰かは怒鳴った。

「このわからずや! 僕と出会って、僕の隣にいたのは、ザニー・クラウスだ! ハレルヤ神父じゃない!」

 小瓶が割れ、兄さんの赤い血がポケットから染み出す。すると、短剣を持っている俺の手が微かに震えた。視界に映る、アルファベット。身体を縛る絃が千切れていく感覚と共に、俺は渾身の力を込めてその名を叫んだ。

「高みの見物とっとと止めて、祭りに参加しろ、モレク!」
『けけっ、こりゃ驚いたぁ。敵である僕を捩じ伏せて契約しようなんて……馬鹿って言うか、怖いもの知らずって言うか』

 ミカに取り憑き、祭りの始まりを告げた悪魔の名を俺は呼んだ。身体がまた勝手に動こうとするのを俺は必死に抑える。モレクは値踏みするように俺に話しかけてきた。

『迷いはちゃんと吹っ切れてるのかなぁ? でないと僕が乗っ取っちゃうよ?』
「――初めて言われたんだ」
『ん?』
「ハレルヤじゃないって言われたの、初めてだった」

 ハレルヤのようになりなさい。
 ハレルヤみたいね。
 ハレルヤが帰ってきたみたい。

 そればかりを言われ続けて、ザニーはいつでも蚊帳の外。誰も彼を呼んだりしない。
 だからザニーはハレルヤの仮面を被って、いい子にしていた。
 兄の代わりに土に埋まって、ザニーはもう目覚めないつもりだった。

「そうだよ、もうザニーになんか戻らないって思ってたのに」

 墓を掘り起こす、赤い目の少年がいたのだ。

「――るーくんが、呼ぶから」

 俺はルシアを見据えた。クラムカランも意外そうに目を細めている。

『ふぅん。美しい友情ってワケ。けけ、いいよ。面白いから協力してあげる。ザニー、君はどうしたいのかな?』
「この場にいる村人の面をぶっ壊して、あのいけすかない野郎をぶっ飛ばしたい」
『了解』

 俺の身体の中にモレクが入り込んでくる。グレイル・バッカスの絃が完全に消え、俺が持っていた短剣の柄から葡萄の蔓が伸びてきた。その蔓は大きく成長し、村人たちからバッカスの面を弾き飛ばしていく。

「これは、これは。モレク様がそちらへ就くとは、想定しておりませんでした。ここは一旦、退かせていただきますよ」
「待て!」

 俺の制止も虚しく、クラムカランは夕闇に溶けていった。
 割れた祭りの面が無数に散らばり、村人たちは倒れているものの、ほとんど無傷で済んでいるようである。するとモレクは俺の身体から離れ、葡萄の蔓の実体化も収まった。

『あーあ、逃がしちゃった。まぁ、僕の役目はもう終わりだよね』

 そう言ってモレクが帰ろうとした瞬間、踵を鳴らす音が響き渡る。

『なっ!? ちょ、ちょっと、何これ!』

 モレクの下に魔法陣が現れ、檻のようにモレクを閉じ込めている。もちろんその首謀者は、

「随分事情に詳しいようだね。話、聞かせてもらってもいいかな。はいか死かでお答えを」
『えー? それ拒否権ないじゃん!』
「あとザニー。今までのこと、洗いざらい吐いてもらうからね?」

 天使のような微笑みをしたルシアだった。