昔日のフュネライユ

プロローグ/ルシア

「サビエナ!!」

 縋るように叫んだ喉に、不躾に何かの液体が押し込まれた。
 自分の意志に反して流し込まれるそれは気管も食道も問わずに全てを埋め尽くしていく。
 赤、赤、赤だ。
 まるで溺れるほどの赤が、すべてを埋め尽くしていく。
 必死に呼吸をしようと口を開けても、そこにまた赤が流し込まれる。
 甘ったるい味に似たそれが流れるたびに、僕ではない何かが、僕の身体を支配していく気がした。
 遠くなり始めた意識の端で、くぐもった暗い声が笑う。

『確かに、実に美味そうな子供だ』

 それに応えて、聞きなれた声がひきつった調子で続ける。

「そう、そうでしょう、さあ、さあ、さあ、その、その子供を、あげるから、そいつを、生贄にするから、今度こそ」

 僕がいつも聞いていた優しい声じゃない。
 同じ声だけど、全然違う。
 まるで喉を締め付けられているような、醜い彼女の声。
 ああ、どうしてこうなってしまったのか。
 赤に埋め尽くされた思考の隅で考える。
 僕は、ただ、彼女に、薬を届けに来ただけだった。


*****


 少し前に、僕の父親が死んだ。
 ちなみに言うと、母は僕を生んですぐに死んだ。
 薬の行商人をしていた父はあまり長く家に居ることはなかったが、
 それでも男手一つで僕を育ててくれた。
 記憶の隅には、薬研に向かう父の背中があった。

 けれど、そんな父も、無理がたたったのか僕を残して死んだ。
 こういうことは順番なのだと、埋葬を手伝う神父が言ったけれど、それにしたって、やっぱり父は僕の為に死んだのだろう。
 ……さっさと僕を捨ててしまえばよかったんだ。
 母の命を奪って生まれた僕を、きっと父は憎んでいたはずだ。
 生活の枷にしかならない僕を、きっと父は憎んでいたはずだ。
 すっかり埋められてただの土山になった父の墓を眺めて、それから、少し辺りを見回してみた。
 静まりかえった墓地には、遠くに聞こえる鳥の声以外、何の音もしなかった。



 家に帰り、ささくれ立った引き出しを開け、中に入っている顧客リストを取り出す。
 父がお得意様としてよく立ち寄っていた客のリストだ。
 父が死んだ以上、もう薬を今までのように届けることはできない。早めに回って、父が死んだ旨を伝えなくては。
 父がしていたように、旅支度を整える。
 これがきっと、最後の父との接点だ。


 いくつかの村を回って、客に事情を話して回った。
 どの客も、残念がったり、憐れんだりしてくれたが、最後には次の薬の当てを探すことを気にかけていた。
 行商人もそうそう通らない辺境の村がほとんどだ。彼らにとっては死活問題なのだろう。
 かといって、僕にこれ以上何か出来るわけもない。
 父は薬師だったが、僕に色々と教える前に死んだ。
 そもそも大人の足と子供の足では、運んで歩ける範囲だって違う。
 客に一言二言謝罪を述べて、村を後にする。
 僕に出来ることは、いつだってこういうことまでだ。


 それを何度か繰り返して、リストの最後の村にたどり着いたころには、
 その日の太陽はすっかり山に隠れてしまっていた。

「サビエナ…」

 リストの最後に載せられた名前を訪ねていくと、その家は村はずれに酷くさびしく建っていた。
 ドアを何度かノックすると、中からゆっくりと、一人の女性が出てきた。

「……どちら様でしょう……?」

 か細く問う声に、今まで何度か繰り返してきたように、父が死んだ旨を伝える。

「父、サントスが今までこちらにお薬をお届けしていたと思うんですが…」
「ああ、はい……」
「サントスが、先日死にまして、もうこれまでのようにお薬をお届けすることが出来ません。」
「え……」

 女性は、ひどく絶望したような顔をした。
 これまでの客の誰よりも青ざめて、女性は僕に続けた。

「あの……どうしても、駄目ですか……?」

 聞くと、女性はとても難しい病を患っているらしい。
 薬が無ければ、一年持つか、というところだと彼女は言った。

「……薬の在庫があれば、持ってきます。」

 新しく薬を作ることはできないが、在庫があれば持ってくることくらいは出来る。
 幸いこの村は、僕の村からそう遠くは無い。
 同情した訳ではないが、初めて“僕”に向けられた懇願を無下にすることは出来なかった。
 彼女はとても喜んで「もう日も落ちたことだし、うちに泊まっていってください」と誘ってきた。
 僕だって、暗い山道を帰るのは遠慮したかった所だし、大人しくその誘いに甘えることにした。



「あの、大したものが無くて申し訳ないんですが…」

 そう言って彼女が出してくれた料理は、確かに豪華ではなかったが、素朴で暖かいものだった。

「いいえ、十分です」
「あ、そういえばお名前を、伺っていませんでしたね。私はサビエナと言います」
「……ルシアです」
「そう、ルシアくんっていうんですね」

 そう言ってサビエナはふんわりと笑った。
 誰かと一緒の食事は、ひどく久しぶりだった。
 ……こういうのも、悪くないかもしれない。
 と、柄にもないことを思ってしまった。




 それから何度か、サビエナの元に薬の在庫を届けに行った。
 しかし届けるたびに、サビエナの顔は曇る一方だった。
 ……それはそうか。
 新しく僕が薬を作れない以上、サビエナは自分の命の残量が減っていくのを、顕著に感じなければいけない。
 不安で、当たり前だろう。

「……その……、次で在庫、最後です」

 サビエナの不安は痛いほどわかるが、伝えなければいけない現実として、そう彼女に伝えた。
 サビエナは少し目を見開いた後、一度目を伏せ、そしてなぜかふんわりと笑った。

「……分かりました。今までありがとう、ルシアくん。……次は、いつ来るんですか?」
「次は、三週間後、くらいです。今回は少し多めに持ってきたので」
「そう、ありがとう。……次に来た時には、お茶を用意しておくから、ゆっくりしていってね」

 玄関先で彼女はそういうと、やはりふんわりと笑った。

「ええ、それでは」

 サビエナの言動にどこか違和感を覚えながらも、一つ頭を下げて踵を返した。
 帰り際、風に乗って、サビエナの小さな声が聞こえた気がした。

「……もう時間がない……急がなきゃ……」



*****


 耳の奥で不快な声が響く。
 最後の在庫を届けに来た時、サビエナは以前言った通り、何故だか上等なティーセットを用意していた。
 それを勧められるがままに二口ほど飲んだ瞬間、体中から力が抜けた。
 真っ青な顔で僕を見下ろすサビエナの後ろに、真っ黒なもやのようなものがゆらゆら揺れていた。
 そのもやがこちらに手を伸ばした瞬間、真っ赤な液体にすべてが埋め尽くされた。
 まるで水中で聞くようなくぐもった声が、ずっと響いている。

「さ、さあ、お望みの、今度こそお望みの、おいしそうな子供でしょう!」
『ああ、実に美味そうな子供だ』
「そいつを、生贄にあげるから、こ、今度こそ、私の願いを、叶えて頂戴!」

 まるで首を絞められているような、固い彼女の声。

「今度こそ、私の寿命を、伸ばしてちょうだい!」

 ああ、それこそが彼女の願いだったのだ。
 全てを埋めた赤が、それを嘲るように揺れた。

『足りないな。お前一人の寿命を延ばすには、それはもう多くの生贄が必要なのだ。まして、すでに死神に魅入られたお前のことだ。』
「なんでよ!もう、もう、何人も、何人も、村の人をあげたでしょう!」
『命の重さは等価ではないのだよ、可愛いサビエナ。まして、お前を狙う死神をなだめてやるには、もっともっと、多くの命が必要なのだ。』
「そ、それじゃあ……」

 サビエナが何かを言おうとした瞬間、家のドアがひどく乱暴に開けられた。
 ドアの向こうには酷く怒ったような顔をした男が一人、立っていた。

「サビエナ」

 男が発した言葉は、決して大声ではなかったが、家中の空気を凛と揺らした。

「……ハ、ハレルヤ……」

 サビエナが怯えたように男の名前らしきものを呼んだ。
 男は張りつめた雰囲気のまま、家の中を一通り視線だけで見まわし、最後にまたサビエナをにらみつけた。

「どうして、こんなことを?」

 男の声色には、一切責めるような調子は無かった。
 けれどサビエナは、まるで酷い悪戯が見つかったときの子供のように、顔を真っ青にして狼狽した。

「君に聞いているんだ、サビエナ」
「……だ、だって……私……」

 サビエナは震えながら、必死に喉を鳴らした。

「……だって、私、ハレルヤと、生きたいの……!」

 男は一度驚いたように目を見開き、そして悔しそうに一度舌打ちをした。

「……だ、大丈夫よ、すぐに、すぐに、済むわ。そうしたら、ずっと、ハレルヤと一緒に生きていけるの、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと」
「サビエナ!」

 サビエナの言葉を遮るように男は叫んだ。その声は、悲鳴に近いような気がした。
 そして男は、僕の方に視線を向けた。

「彼を返してもらうよ」
「駄目よ!」

 男の声に、サビエナは悲鳴のように声を上げた。
 男はそれを一切聞かず、僕の方に腕を伸ばす。

「やめて、やめてやめてハレルヤ!!邪魔しないで!ハレルヤは私と一緒に生きたくないの!?私が、私が死んでもいいの!?」
「良い訳あるか!!」

 ヒステリックに叫ぶサビエナに男も怒鳴り返す。
 そしてひどく小さな声で、

「……でも、“サビエナ”は、俺が、守るよ」

 と囁いた。

 男が僕の腕を引いた瞬間、まるで水中から引き上げられるような感覚に襲われ、急に入ってきた空気に肺が悲鳴を上げた。
 男がなにか複雑な呪文のようなものを唱え、ざあっと空気が悲鳴を上げる。
 同時にサビエナの背後にいた真っ黒なもやが、槍のような形に引き絞られる。

「生きることが望みの契約なら……」

 男が口の中だけで呟く。彼に抱きかかえられたままの僕にだけ、その声は落ちてきた。
 その声は、酷く苦痛にまみれていた。
 もやの槍と、いつの間にか男の右手に現れていた十字の形を模した剣がほぼ同時に振りかぶられた。
 直後に起こった黒板をひっかくような不快な音と、直接頭を殴られたような衝撃に、僕の意識はいとも簡単に飛ばされてしまった。
 ただ、僕をきつく抱きしめる男の腕だけが、僕を生きることに繋ぎとめているような気がした。



*****



 “それ”から救われてすぐの記憶は、あまり定かではない。
 次に意識を取り戻したのは、教会の敷地にあるらしい、病院の寝台の上だった。
 傍についていた司教が言うには、3日ほど目を覚まさなかったらしい。
 「ハレルヤ神父の死が無駄にならずに良かった」と、そいつは他の誰かの為に泣いていた。

 偉そうな年寄りが話すことには、
 どうやら自分は、「ハレルヤ」という神父の命を犠牲に、「悪魔堕ち」から救われたらしい。

「……一度悪魔に魅入られたものは、またいつ翻弄されるかわからない。……君は、教会が保護するよ、良いね?」

 確定を込めて告げられた言葉に、僕の拒否権などなかった。
 ……まあ、別に。
 故郷に帰っても、だれもいない。父も母も死んだ。自分の将来すら何も見えない。
 そんな中、目の前に押し付けられたレールは、ひどく楽なもののように思えた。

 ある程度身体が自由に動かせるようになって気付いたのは、以前よりずっと身体が動くようになっていることだった。
 少し癪だが、僕は身体が小さい方だ。同時に力もろくに無く、畑仕事や山仕事は苦手な方だった。
 それが、ふと手にした林檎が砕けたり、少しのジャンプで思ったより跳ねてしまったり、今までの自分の身体より、ずっと能力が上がっている気がした。
 それも「悪魔堕ち」の影響だろう、と皆口々に言った。
 そもそも、「悪魔堕ち」からの生還の例は極端に少なく、教会で僕を見る大人たちの目は、皆実験動物か何かを見るような、暗い知的好奇心に満ちていた。
 ……これも、別にどうだっていいことだ。






「何か必要なものもあるだろうし、一度街へ出てみようか」

 子供をあやすように機嫌を取ってくる神父と一緒に、初めて教会の外へ出た。
 仰々しい教会の門が開き、敷地の外に出た途端、圧倒的な音量の雑音が耳にあふれた。

「……っ…?」

 思わず耳を塞ぎ、膝をつくと、隣についていた神父がひどく慌ててこちらを覗きこんでくる。
 神父の口が何か慌ただしく動いているが、何も聞き取れない。
 ただ、様々な声が、煩雑に耳を叩く。

「……うるさい……っ」

 うずくまる僕を、神父は慌てて教会へ運びこんだ。
 敷地に入ると、途端に雑音が消え、いつも通りの世界が戻ってくる。

「……どうしたんだい?」

 僕は恐る恐る聞いてくる神父の顔を煩わしく見返し、ただ一言、
「うるさかった」
 とつぶやいた。
 慌てて出てきた老年の神父が、事情を聞いて少し眉を寄せた。

「……悪魔の声かもしれないな」

 その老年の神父が言うには、「悪魔堕ち」の影響で低級悪魔の声まで聞こえるようになってしまったのではないか、ということだった。
 本来低級悪魔は何かモノやヒトに憑かない限り人間に干渉できないものだが、
 自分はどうも、一度「悪魔落ち」した影響でその声が聞こえるようになってしまったらしい。

「……教会の敷地の中は清められているから、悪魔も滅多に入ってはこないが……街には様々な悪魔……殊に低級悪魔が溢れているからね。さぞ、うるさいだろう」

 老年の神父は労しげに僕の頭を撫でた。
「こればっかりは、上手く付き合っていくしかないね」、という何の役にも立たない方策を与えられて、僕はまた部屋へ戻った。



 それから、幾年か経ち、僕は教会の中で、一応神父という立場に置かれた。
 とはいえ、聖書なんてろくに信じているわけでもないし、神様もまた等しく信じていない。あんな破綻まみれの物語、ろくに面白くもない。
 だから、祭祀に出向くことも、ミサに参加することもしない。
 ただ、教会に身を置く以上は教会の為に働けと、相変わらず選択権のない現実を押し付けられ、祭祀に関わりのない、「悪魔祓い」という立場を与えられた。
 「悪魔祓い」、神父の立場を与えられてはいるが、実際は傭兵じみた存在だ。
 人間、いや、教会に仇なすレベルになった悪魔を退治するために、戦い、使い捨てられる存在。
 世界に、塵に並ぶほど溢れかえる悪魔を退治する、不毛な存在。
 すべては教会の権威を守るためでしかない。
 ……まあ、これだってどうでもいいことなんだけど。

 低級悪魔の声の中で、何とか普通に会話することもできるようになった。
 カクテルパーティー効果?とかいうの?
 とにかく、雑音の中でも、話は出来るようになった。


 悪魔祓い特有の制服を与えられてしばらく経ち、いくつかの細々とした事件を鎮圧して、悪魔祓いとしての能力も買われてきた。
 「悪魔堕ち」から手に入れた身体能力と、悪魔と意思疎通が出来ることで、ずいぶんとスムーズに解決はできたから、特筆するべきことじゃない。
 出会ったどの悪魔も、ちょっと脅かしてやればビビって逃げ出すくらいの腰抜けだった。

 ある日、任務から帰ると、難しい顔をした神父が声をかけてきた。

「ルシア」

 名前を呼ばれ、鬱陶しく思いながら振り返ると神父は一枚の写真を差し出して固い声で告げた。

「今度の任務から、君に同僚を付けることになった」
「……はあ」

 生返事をして渡された写真に目を落とす。
 年上のようだが、どうも頼りない顔をしていた。
 便宜的には同僚、ということらしいが、大方監視役だろう。
 そこそこの成績を修め始めた元「悪魔堕ち」を教会側が不安に思い始めたってところか。
 全く、相変わらず自分勝手なことだ。

 神父に愛想笑いを返して、自室に戻った。任務の直後だし、身体は疲れ切っている。
 ベッドに身を投げ出していると、小さな囁き声が聞こえた。
 教会の結界をうっかりすり抜けてきた低級悪魔だろう。
 教会の清浄な空気に弱ったのか、ひどく小さな声だった。
 ぽそぽそと耳元で不確かなことを囁かれるので煩わしい。

「……うるさいよ」

 枕に顔を押し付けたまま咎めると、小さな声は怯えたように治まった。

『なにかくるよ』
 しばらくして、小さな声がまた囁いた。
 同時に、遠くから騒々しい足音が聞こえる。どうやら、件の“同僚”らしい。
 やがて騒々しい足音が、部屋の前で止まった。

『おいしそう』
 その小さな声は、扉の向こうの存在を指してそう言った。
 およそ何の褒め言葉にもならないそれは、扉の向こうの男の厄介っぷりを暗に指しているように思えた。
 ……そもそもうるさい男は好かないけど。

 悪魔が言う“おいしそう”の定義はよくわからないけれど。
 ただ、“あの時”口にした悪魔の血というものは、とても甘い味がした、気がした。