昔日のフュネライユ

プロローグ/ザニー

 どうして僕はこんなことをしているんだろう。
 どうして僕は、兄さんの墓を掘っているのだろう。
 古いシャベルの錆の香りと、湿気を帯びた黒い土の臭いが混じり合って辺りに充満している。
 僕は深くなってきた穴の中でさらにシャベルを突き刺す。
 土を持ち上げ、麻布に乗せ、上の人夫たちに合図をする。人夫たちは土の乗った麻布を引き上げた。
 ずっと母さんが地上ですすり泣いている。たぶん、きっとこう思ってるんだ。

 ――ああ、どうしてハレルヤなの?

 どうして何もできない僕じゃなくて、優秀な兄さんが死ななきゃいけないのかって、
 きっとこの世の、不条理を通り越した残酷さを嘆いてるんだ。
 少なくとも僕はそう思ってる。他でもない僕自身が。

「……ねぇ、兄さん」

 いったい、なんだって見ず知らずの子供のために死んだりしたの?
 僕にはよくわからないよ。僕は兄さんじゃないから。
 でも、もしかしたらそんなことは大した問題じゃないかもしれない。

「昔、偉大な人間が死んだときに行われた葬送行進には、必ず死者を演じる道化が棺の隣にいたんだよ」

 シャベルを動かす手を止める。この深さまでくれば大丈夫だろう。
 掘り返された黒い土を見る。僕は自分が下げていた十字架のペンダントを土の上に落とした。
 大丈夫、ここに埋まるのは兄さんじゃないんだ。

「……さて」

 ”俺”は”弟”の十字架の上に土を薄く被せ、地上の人夫たちに手を貸されながら地上に戻った。

 被った仮面は祝福の仮面。だから俺は手放さない。
 捨てた十字架は無能の印。すがることしかしなかった”僕”のアトカタ。

 人夫たちが影のように黒い棺を合図とともに下ろしていく。母さんのすすり泣きが金切り声に変わっている。

 ――ハレルヤ! おお、私のハレルヤ!

 違うよ、母さん。死んだのは俺じゃない。弟のザニーだ。そう、”Dusty Zany”が死んだのさ。
 弟の十字架は棺の下敷きになり、見えなくなった。
 被った仮面は、もう剥がさない。


*****


「ザニー。また泣いているのかい」

 納屋の外から兄さんの声がした。
 僕は知らない振りをして、しゃっくりを押さえるように積まれた枯れ草の中で息を殺した。
 ギ、と古い木戸が押し開けられる音がして、靴音が近づいてくる。

「泣いてない」
「じゃあ顔を見せてごらん」
「やだ」

 笑うような、呆れるような吐息が聞こえた。枯れ草が少し揺れて、兄さんが僕のすぐそばに座る。

「お前は可愛くないね」
「悪魔の子だから」
「またそんな根も葉もないこと言われたのかい?」

 僕はみんなから嫌われていた。
 母さんは、僕という存在は生まれてくるはず無かったんだっていつも言っている。
 なぜなら、僕が生まれてくる2年以上前に、父さんは死んでいたから。
 母さんがヒステリックに僕を怒鳴りつけている声を聞いた近所の子たちは、節を付けて歌うのだ。

 ――Dusty Zanyは悪魔の子。勝手に腹に入ってた、なにもできないみじめな子。

「母さんだって、言ってるじゃない」
「あの人は少しおかしくなってるんだよ。処女懐胎なんてあるわけないだろ」
「悪魔祓いがそんなこと言っていいの」
「俺は別に神を信じて悪魔祓ってるワケじゃないし」

 何も信じなくったって、強けりゃなんだってできるさ。兄さんはおもしろくなさそうにそう言った。

「じゃあ、どうして僕は生まれたの?」
「んー、そうだねー。……あの人が、不道徳だったんじゃない?」
「実の親によく言えるね」

 フドートク、と小難しそうな単語をさらっと兄さんが言ったのを聞いて、僕は唖然とする。

「別に。ただちょおーっと辟易はしてるからさ。
 俺だけ愛されて、お前が愛されない理由なんて、ホントはないはずなのに」
「……兄さんこそどうかしてるよ」
「なにが?」
「なんでもない」

 僕は言葉を飲み込んだ。兄さんは僕の髪の毛を犬でも可愛がるようにかき回した。

「まー、俺が悪魔祓いとして優秀でルックスも性格もいいスーパー超人ってことは認めるけどさぁ」

 そう言って兄さんが背中越しに抱きついてきた。

「それを言った時点で性格に関しては問題あると思う」
「ザニー。この世にはジョークというものが存在するんだ」

 兄さんはわざと仰々しい声で僕に言い聞かせ、自分で吹き出していた。僕もそれにつられて笑い出す。
 僕の言葉を聞いてくれるのは兄さんだけだった。


*****


 ――Dusty Zanyは悪魔の子。不気味な力を持っている。異常な力を持っている。

 まただ。また誰かが僕のことを否定する。
 僕にはもう、その言葉たちが本当に僕に向けられて歌われているのか、
 それとも僕の頭の中で反響している得体の知れない声なのか、判断がつかなくなっていた。

 その歌に混じって、ふと犬の唸り声が聞こえた。
 畑の雑草取りをする手を止めて、僕は辺りを窺った。
 僕の家の畑は森に隣接しており、その森からはいつも闇がこぼれていた。
 そのせいか昼でも少し薄暗い、いつでも曇りの空に囲まれているような気分になる。
 その暗い森の茂みから、一頭の犬が姿を現した。

 いや、それは犬のように見えた異形の存在だった。
 犬の体躯に四本の角、本体とは別の意志を持っているかのように蠢く蛇の尾。
 悪魔祓いである兄さんから聞いたことがあるその姿は、哀れな野犬が悪魔に憑かれた成れの果てだった。

 この世界には悪魔と呼ばれる悪しきものが存在している。
 悪魔たちは生物に取り憑き、まるで僕たちが生きる世界そのものを憎むかのように、破壊行動を行う。
 それに対抗するために、サントラル正教会が設立され、僕の兄さんのように悪魔祓いと呼ばれる聖職者たちが日々戦っている。

 野犬に憑いた悪魔はだらりと舌を垂らし、涎を地面にこぼす。するとその地面が煙を上げて焼けるような臭いを放った。
 今、この畑には僕しかいない。兄さんは退魔の仕事に行っているし、母さんは軽く50フィートは離れた家の中で家事をしている。逆に考えれば50フィートの間で僕がこの野犬の悪魔を食い止めなければ、僕以外の人間に危害が及ぶ可能性がある、ということだ。
 僕はベルトの後ろに収納している短剣(スティレット)に手をかけた。聖水の加護も、神の祝福も受けていない、ただの短剣だ。

 本来、悪魔に対抗する有力な手段とされているのは、自分自身も悪魔を召喚し、その悪魔に自分の体を貸す――その力を宿すことだ。
 けれどそれには強靱な精神力を必要とする。召喚した悪魔に乗っ取られないだけの自我がなければいけないのだ。兄さんと違って僕は弱いから、その手段を使うことはできない。

 短剣を鞘から抜く。甲高い金属音が一瞬だけ響き、周囲に溶け込むようにすぐに消える。
 誰にもらったのか記憶がないのに、いつの間にか僕はこの短剣を持っていた。柄に奇妙な葡萄の蔓の紋様が描かれているけれど、意味はわからない。
 この短剣の銀の輝きを見ると、僕は少しおかしくなる。頭の奥が落下していくような、意識まで暗くなっていきそうな恐怖感と、笑い出したくなるような高揚感。  その二つが重なりあって僕に「異常な力」を使わせる。野犬の悪魔は僕を敵と認識し、再び唸り声を上げて突進してきた。


*****


「……ニー、ザニー。しっかりしろ、ザニー!」

 兄さんの声がさざ波のように押し寄せてきて、僕は目を開けた。

「にい、さん……?」
「ああ、ザニー。良かった無事で。怪我は? 痛いところは?」
「大丈夫だよ、そんなに心配しなくても」

 どこも痛くないよ、と僕は笑って答えた。
 くぅん、と鳴き声が聞こえて視線を横に向けると、子犬が僕の手を舐めていた。

「あ、無事だったんだね」

 僕が子犬を撫でてやっていると、兄さんは溜め息を吐いて、まったくどうなってるんだか、と言った。

「悪魔憑きへ物理的に切りかかって祓うなんて、
 古今東西聞いたことないんだけどな……しかも本体は無傷ときてる」

 兄さんも子犬の黒い毛皮を一撫でした。僕は少し自嘲気味に返す。

「やっぱり、悪魔の子の力なんじゃない」
「違う」
「どうしてそんなはっきり言えるの」
「どうしてお前はそんな話を信じるんだ」

 兄さんは髪と同じ金色の瞳を真っ直ぐにこちらに向けてきた。

「ザニー。お前は俺の弟だ。絶対に」

 何故か兄さんが辛そうな顔をするから、僕は何も言い返すことができなかった。
 ――僕にはなんにもアカシがないのに。いつも宙づりの気分でいるというのに。


*****


 ――季節は何度も移り変わって、そして一つの終焉の時を迎えた。



「兄さん……?」
「……しか、なかった」

 血溜まりの中に兄さんはうつ伏せに倒れていた。
 反対側の血溜まりに倒れているのは、もう息をしていない一人の村娘だった。
 彼女――サビエナは村の外れに一人で住んでいた娘だった。
 彼女が病を治すために高位の悪魔を呼びだし、僕の住んでいた村の人々を数十人殺害したこの事件は、
 後に「魔女サビエナの惨劇」と呼ばれることになる。

「殺すしか、なかったんだ……」

 兄さんは泣いていた。兄さんは、サビエナを愛していたから。
 僕は兄さんのそばに駆け寄った。

「兄さん、しっかりしてよ……!」
「ザニー……ごめんな……」

 僕が駆け寄った来たのを見ると、兄さんは弱々しく微笑んだ。

「なに、謝ってるのさ……! まだ助かるよ、しっかりしてよ、ねぇ!」
「はは……さすがに、スーパー超人の俺でも、この傷は、無理だよ」
「なに弱気になってるの、大丈夫だよ、もう少ししたら医者が来るよ!」
「わかるんだよ、こういうの……」
「兄さんは助かるんだよ! 助かるんだ!」

 僕はヒステリックに叫ぶことしか出来なかった。

「……ザニー」
「……置いてかないで、いやだよ、僕、兄さんがいなきゃ、いやだ……!」
「今日のザニーは、ばかに素直、だな」
「そうだよ。ねぇ、僕ずっと素直でいるから……置いてかないで、兄さん……」

 僕がそう言うと、兄さんはまたごめんな、と言って、こう続けた。

「……ザニー、俺より、この子の手当てしてやって」

 そこで、兄さんが誰かを庇うように抱きかかえていたことに気付く。
 黒髪の、小柄な少年だった。気を失っているようで、瞳の色は窺い知れない。
 村の人間でないこと以外、僕には何もわからなかった。

 そう、どうして兄さんが愛しい人を殺さなければならなかったのか。
 どうして兄さんがこの少年を庇ってこんな目に遭わなければいけないのか。
 僕には、わからなかった。

 それとね、と兄さんは掠れた声で僕に”とあること”を指示した。僕は、兄さんの言葉に従った。
 僕と兄さんは別れの刻が来ていることを肌で感じていた。

「ザニー。俺は、さ」

 兄さんが腕を持ち上げようとしているのがわかって、僕はその手を掴んだ。

「俺は、お前の兄貴でいられて、……幸せだったよ」

 ほとんど冷たくなっていた兄さんの手から、ふっと力が抜けた。

「……兄さん?」

 兄さんの金の瞳から光が失われたことに気づいて、僕は呆然となる。
 もう一度、兄さん、と僕は呼んだ。それから堰を切ったように僕は何度も「兄さん」と繰り返した。
 まるでお伽噺でも信じているように、呼び続ければ兄さんの魂が戻ってくるんだと自分に言い聞かせて、冷たいその手を僕は握ったまま離すことができなかった。


*****


 僕は病院の寝台で眠る、兄さんに助けられた黒髪の少年の元を訪れた。彼はまだ、目を覚ましていなかった。
 ふわふわとした猫毛に、真っ白な肌。
 人形のような美貌をたたえた少年に、僕は語りかけた。

「理由がわからないから、僕は君を許せない」

 自分でもぞっとするほど無感情な声が病室に響く。

「これから僕は、”僕”を捨てに行くよ。ハレルヤは死なない。世界には祝福が必要なんだ」

 胸元に下げた十字架を握り締めて、僕は眠ったままの少年に呟く。

「だから、いつか君とまた会うことがあれば。君が守られるべき存在だったんだって、僕を納得させてね」

 ――それだけ、言いたかったんだ。
 僕は一瞬少年に触れようとした手を止めて、そのまま病室を後にした。


*****


 それから四年後。
 ”俺”はサントラル正教会の最下級悪魔祓いとして一つの命を受けることになる。

 正教会内でも最高峰の実力を誇る、少年悪魔祓いの目付け役として任務の補助を行え、と。

 彼の写真を渡された瞬間、俺は「ああ、運命かな」と柄にもなく思った。
 たぶん、錆ついた歯車を軋ませて、俺と彼を引き合わせるという、最高に悪趣味な演出を神が施したのだろう。

 だからカミサマってヤツは嫌いなんだ、と俺は小さく口にした。
 そうして、任命状をベッドに放り投げ、旅支度を始めた。