昔日のフュネライユ

第二話/ルシア

 ごとごとと規則的な馬車の振動が体を揺らす。
 現在向かっているクロスロードという小さな村。
 教会から渡された事前資料を暇つぶしがてら眺めてはみたものの、小さな村だけあって、特に目新しい情報は無い。
 仰々しく描き上げられた下らない昔話を読み終わると、思わず口からため息が漏れた。
 向かいの席に座るザニーも資料を読み終えたのか呆れたような声を上げた。

「つまり、昔話じゃないの?」
「だから伝説って前置きしてるし、締めにも伝説って書いてあるでしょ」

 改めて確認するように問いかけてきたザニーに、思わず読解力を疑う。
 呆れて、そちらを少し睨み付けると、ザニーは慌てたように取り繕った。


「いやいや、そういうことじゃなくて。こんな昔話を信じてる村があるのかって意味の質問であって……」
「それが事実なんでしょ。でなかったら僕らが派遣されるわけないじゃない」
「それもそうだけど。ふぅん、バッカス祭ねぇ……」

 これから向かう村は、かの昔話、グレイル・バッカスの故郷だという。
 そんなところでグレイル・バッカスを祭る行事が行われているのだから、教会としても放ってはおけないのだろうが……。

 ……なんで昔の奴の尻拭いなんかしなきゃいけないんだ。

 しかももう形だけに成り下がり、ただ騒ぐだけの祭りになっているとか。
 わざわざそんなものに人材を割くなんて、教会も暇なのか、あるいは……。

 少し腹を立てながら資料をたたむと、ザニーがゆるーい笑顔でこちらを眺めていた。

「ま、なんかあっても、るーくんがいたら安心だよねぇ」
「そんなことを言うのであれば、今回の特別手当は全部僕がもらっていいってことだよね?」
「やめて! 最下級悪魔祓いの安月給を知ってるでしょ! 鬼! 悪魔!」

 酷く情けない声でそこまで言った所で、ザニーが急に表情を硬くした。
 なんでこの男はこうも分かりやすいのか。
 恐る恐るこちらを見るザニーに、ふと悪戯心が疼く。

「確かに悪魔みたいなものだけど」

 わざとしおらしい声を出してみると、ザニーが慌てだした。

「あ、いや……なんか、ごめん。――痛っ!?」

 その頬を、遠慮無しにみょんみょん引っ張り伸ばす。

「次、気ぃ遣うような真似したらこんなものじゃすまないからね?」

 にっこり笑顔を張り付けて指先に力を入れると、ザニーは涙目で頷いた。
 ペッと放り出すように手を放し、一つ息を付いて座席に深く座りなおす。
 ザニーがぷるぷるしながら、器用に体育座りの姿勢を取ったのを見届けて、視線を窓に向けた。
 すると、ザニーが少しトーンを下げて、声をかけてくる。

「あのね、るーくん……俺、ずっと黙ってたことがあるんだ」

 急に真面目な声を上げたザニーに、何事かと向き直ると、ザニーは青い顔でこちらを見つめてくる。


「俺……俺……」
「……何?」

「酔った」

「…………は?」
「馬車、こんなに揺れるなんて思わなくて……っ、資料読んでたら……余計、酔っちゃった……死ぬ……」
「馬鹿じゃないの!? そんだけ真剣な顔して言うことそれなの?」
「だって、俺、結構真面目にヤバイと思って……うえっぷ」
「ちょ、ここで吐かないでよっ」

 口を押えたザニーを抑え込んでいるうちに、ザニーは我慢の限界を迎えたのか、真っ青な顔で気を失ってしまった。

「……ちょっと?」

 ぺちぺちと頬を叩いても、うめき声を上げるだけで一向に目を覚まさない。

「……まあ、ここで吐かれないなら良いけど」

 窓の外に目をやると、ゆっくりと人里が近づいてくるのが見える。
 もうすぐクロスロード村に着くようだ。

「……どうしようかなぁ、これ」

 近づいてくる村を眺めながら、自分で運ぼうとすると不本意ながら確実に引きずるだろう目の前の大荷物を眺め、息を吐いた。


*****


「ようこそ〜」

 馬車から降りると、素朴な服装の女性が声をかけてきた。
 少し見上げるようにしてその女性の顔を認めた瞬間、突然ノイズが走ったように視界が歪んだ。
 何度か瞬きをして、女性を見直すが、特に変わったところもない、柔らかな雰囲気の女性。
 むしろ、恐らく美人のカテゴリーに属するだろう雰囲気だ。
 少し集中して聞いてみたけれど、別に、悪魔に憑かれているような様子もない。

 ……何だ、今の。

 考え込んでいると、女性は少し戸惑ったように覗き込んでくる。

「ええと、教会の方ですよね〜?」
「あ、ああ、そうだよ。君は?」

 その問いに、女性はゆるりと微笑むと少しスカートをつまんで挨拶の動作をした。

「私は、本日ご予約頂いている宿の者で、エマと申します〜。お迎えに上がりました〜」
「それは、どうも。……僕はルシア。悪魔祓いだよ。まあもっとも、今回はお祭り見物みたいなものだけど」

 エマは少し首を傾げてまた困ったように眉を寄せた。

「ん、どうしたの?」
「いえ……今回のご利用は2名様と伺っていたんですが〜……」

 ああ、と少し息を吐いて親指で後ろの馬車を指す。
 気を失ったザニーはまだ座席で小さく唸っている。

「もう一人、ザニー・クラウスっていうのが居るんだけど……、ええと、アレ」

 ぞんざいに指された先をエマは覗き込んで、少し笑った。

「あらまあ、馬車酔いですね〜?」
「そう。全く、軟弱だよね……」
「いえいえ〜、この村までの道はちょっとでこぼこなので、仕方ないですよ〜」
「そういうわけで、僕じゃ担げないから、悪いけど彼が目を覚ますまで待って……」
「私がお運びしますよ〜」

 ため息交じりに言いかけたところを、実に予想外な言葉で遮られた。
 驚いて思わず聞き返す。

「お運び?誰が?」
「私がです〜」
「誰を?」
「クラウス様をです〜」

 間延びした口調でゆるりと返すエマを、改めてまじまじと見る。
 見るからに、華奢な女性だ。
 下手したら、僕より力が無いんじゃないか、と思う。
 そんな彼女が、仮にも大の男のザニーを運ぶという。
 エマの言葉を信じられずに、次の行動を考えあぐねていると、エマは失礼しますね〜と馬車の方に歩み寄り、よいしょっ、と小さな声を上げたくらいにして、何でもないようにザニーを持ち上げた。
 完璧なお姫様抱っこだった。

「す、すごい、ね」

 思わずそう零すと、エマはゆるりと笑った。

「私、こう見えて村一番の力持ちなんですよ〜」
「そ、そう……」
「でも、この方も、とても軽いですね〜。まだ村の仔馬の方が重たいですよ〜」

 青い顔でお姫様抱っこされているザニーの顔を眺める。

「まあ、もやしっ子だよね。貧弱」

 僕がそう呟くと、エマはくすくすと笑った。
 ひとまず、目下の問題は解決した。
 これからの事に意識を回し、そうだ、とエマに問いかける。

「エマ、宿屋はどこにあるの?」
「この村の北側ですよ〜。今が南の入り口なので、まっすぐ村の大通りを抜ければすぐです〜」
「じゃあ……ひとまず宿に案内してもらっていいかな?この荷物も寝かせなきゃいけないし」

 こつん、とザニーの額を一つ小突き、自分の荷物とザニーの荷物を持ち上げた。
 小さな村だ。
 来訪者が珍しいのか、はたまた祭りの熱気か、村の空気はどこかざわついている。
 そんな村の中心を、女性にお姫様抱っこで運ばれるザニーは、だいぶ妙な形で村人の印象に残ること間違いなしだろう。

「ま、もやしっ子には良いお仕置きだよね」

 目を覚ました時のザニーのリアクションを思い浮かべて、思わず少し頬が緩んだ。


*****


 エマの案内してくれた宿屋は、素朴で、感じの良い建物だった。
 道すがら聞いたところによると、今は両親から、宿屋の経営をほとんど任されているらしい。
 通された部屋の、日当たりの良いベッドに寝かされたザニーは、それでもしばらく青い顔でうんうん呻いていた。
 エマが、飲み物を用意する、と言って部屋を出て少ししてから、やっとザニーはゆっくり目を開けた。

「ん、……ここ、は……?」

 のんびり起き上がるザニーに、ベッド脇から、心底呆れた声で話しかける。

「ようやく起きたの?」
「ああ、そっか。俺、馬車でダウンして……え、ここ宿?」
「そうだよ。本当に、よくそんな体力で悪魔祓いなんて志望したね?」

 ここぞとばかりに皮肉を吐いてやると、ザニーは実に情けない顔で笑った。

「いやぁ、あはは。というか、るーくんが運んでくれたの?」
「そんなわけないでしょ」
「だよね、身長差的にぶはっ!」

 気を失っていたくせに、失礼な口を叩くザニーの顔面に、手近なところにあったクッションを投げつける。
 まだ硬いものじゃなかっただけ感謝してほしいくらいだ。

「引きずってでも運んであげた方が良かったかな?」
「すいませんでした。……んじゃ、誰が?」
「ああ、それは……」

 素直に情けなく謝ったザニーに、改めて状況を説明しようとした所で、こんこん、と軽く部屋の扉がノックされた。

「はい、どうぞ」

 ザニーが返事をすると、エマがティーセットを乗せたトレイを持って入ってきた。

「失礼します〜。あ、クラウス様、お目覚めになったんですね〜。良かったです〜」

 ザニーは、エマを少し眺めて、そわそわと視線を彷徨わせた。

「あ、えと、」
「何慌ててるのさ」
「いや、だってすごい美人だし」

 ぼけっとしているザニーに、無言で一発チョップをお見舞いする。
 色気づくのはせめてまともに任務地に到着できるようになってからにしてほしい。
 わざとらしく一つ咳払いをしてから、ザニーとエマ、双方に紹介をする。

「ザニー、この人は僕らの泊まる宿の娘さんでエマ。今ではご両親に宿の経営をほとんど任されているんだって。エマ、これはザニー・クラウスという一応教会所属の悪魔祓い。いわゆる僕の雑用係みたいなものだから、気にしないで」
「待ってるーくん! 俺、同僚のラインに立ててないの?」
「馬車でダウンしてたもやしっ子に発言権があると思うの?」
「はい……」
「うふふ、ルシア様とクラウス様はとても仲がよろしいのですね〜」

 僕の紹介に非難の声を上げたザニーに、またもわざとらしくにっこり微笑んでやると、ザニーは涙目で小さくなった。
 そんな様子を見て、エマはのんきに微笑んでいた。
 これが仲良しに見えるなら、エマの中における友人のハードルは、この上なく低いに違いない。
 とはいえ、到着の際に一応世話になり、また、今晩も世話になる宿屋の女性だ。
 あまり意地悪な事は言えない。
 不本意ながら、誤魔化すように咳払いをすると、エマがのんきに言葉を続けた。

「でも、確かにクラウス様はもう少しお食べになった方がいいと思います〜。とても男性を抱え上げた重さだと思えませんでしたもの〜」
「……え? エマ……君、今なんて言った?」

 ザニーは、酷く驚いた様子で聞き返した。
 心なしかまた顔色が悪くなったような気がする。

 ……さてさて、お待ちかねのショータイムだね。

 悪戯心に、頬が緩んだ。

「はい、馬車の到着場所から宿まで、わたくしがクラウス様をお運びしたのですが、とてもお軽かったので、もう少しお食べになった方がいいですよ〜、というお話です〜」
「嘘だよね?ドッキリだよね?」
「ザニー、時に真実は残酷なものだよ」
「るーくん、ねぇ、どういうこと!?」
「つまり君は馬車の到着場所である村の南からこの宿がある村の北側まで、つまり村を縦断する形でエマに運んでもらったんだよ。お姫様だっこで」
「お、おひめ……さ、ま……だっこ……?」
「なんでも、エマは村一番の力持ちらしいよ」
「いや、そういう捕捉はあってもなくても……おひめ、おひめさま……」

 ザニーは、心底ショックだ、というように頭を抱えている。
 宿に向かう道中でも、エマにお姫様抱っこで運ばれる男の構図は、道に出ていた村人からはすでに好奇の目を向けられていたから、恐らくもう村中に噂は広まっているだろう。
 田舎ネットワークの恐ろしい所だ。

「ま、ザニーはもう少し休憩してれば。エマ、村を案内してくれる?」
「はい、喜んで〜。では、クラウス様、お大事になさってくださいね」

 僕は、また倒れ込みそうなザニーを鼻で笑い、エマに村の案内を頼んだ。
 資料ではひとしきり確認したが、やはり現地で見てみないと分からないこともあるだろう。
 僕が部屋を出るまで、ザニーはうんうんと残酷な現実に対して呻いていた。


*****


 外は来た時と変わらず、暖かい陽気だった。
 太陽は薄い雲に隠されてはいるが、過ごしやすい程度の気温を保っている。
 村は祭りの準備にざわついてはいたが、祭りが無い時は、静かで過ごしやすい村なんだろうな、と思った。
 心なしか、低級悪魔の数も少ない。
 そもそも低級悪魔の数は人間の数に比例するから、当たり前と言えば、当たり前かもしれないが。

 それにしても、と隣を歩くエマの顔を眺める。
 隣を歩いているとよく分かるのだが、エマはどうやら村のマドンナらしい。
 村の若い男たちは、皆それとなくエマを気にかけている。
 もっとも、エマ本人はその好意に全く無頓着なようだが。

「そういえば〜」
「どっ、どうしたの?」

 そんなことを思いふけっていると、エマが唐突に声を上げた。
 突然声を掛けられて、思わず声が裏返ってしまった。

「今年から、バッカス祭りの前日に、劇をやるんですよ〜」
「劇?」

 初耳だ。資料にも、そんなことは書いていなかった。
 今年から、ということは、おそらく教会に情報が届く前に僕達が出立した可能性がある。
 全く、これだから既存の資料はろくにあてにならない。

「ほら〜、あそこにもう舞台も整っているみたいですね〜」

 エマが指さす先、村の中央の広場、そのまた中心に、即席らしい舞台が設営されている。
 即席の割には、ごてごてと装飾が多く、どこか滑稽だ。

「劇って、何をやるの?」
「さあ〜……私も詳しくは知らないんですが、お面屋さんのクラムカランさんが発案者みたいなので、きっと仮面劇じゃないでしょうか〜」
「ふぅん……」
「クラムカランさんは、とても素敵なお面を作る男の人なんですよ〜」
「そう……」

 少し辺りを見回すと、繊細な細工の仮面をもっている村人がちらほら見えた。
 なるほど、仮面職人の腕は良いらしい。
 少々イレギュラーな情報だったが、これといって怪しい点もない。
 何年も祭りが続いていれば、新しいことを始めたがる人間も出るだろう。
 そう結論付けて、広場を離れようとした時、宿屋の方から、ザニーが駆け寄ってきた。


*****


「つまり、そのお面工房の人間が村中に魔法陣をばらまいてるっていうわけ?」
「その可能性があるんだよね。いや、考えすぎならいいんだけど……」

 唐突に与えられた情報を、反復する。
 エマを先に宿屋へ帰し、ザニーは事の経緯をかいつまんで伝えてきた。
 いじめられていた子供を助けるなんて、実にお人よしというかザニーらしいというかなんというか。
 足の向かう先は、この村に一件しかない仮面工房。
 先ほどエマから聞いたクラムカランという男の工房だ。
 出揃った情報を並べ、一つ息を吐いた。

「でも確かにそれが本当だとまずいことになるよ」
「え?」
「さっきエマから聞いたんだ。今年からバッカス祭の前日に劇が開催されるようになったんだ」
「前日……って、今日じゃん!」
「教会への情報が間に合わなかったみたいで、僕も初耳だった。しかもその劇の提案者がクラムカランって青年だって」

 あまり喜ばしくない形で事実が一つに繋がっていく。
 ザニーも大方の察しがついたのか、少し顔色を陰らせた。
 少し緊張しながら、工房に続く角を曲がった瞬間、ざあっと耳障りなノイズが走った。

「そしてお面を持ってご来場してくださったお客様には、甘いお菓子をサービス!」
「う、わっ!?」

 場違いに明るい言葉と同時に投げつけられた黒い槍は、ザニーの目の前をかすめて壁に突き刺さった。
 ザニーが驚いて後ずさるのと同時にどこかから現れた村人が僕たちを取り囲んだ。
 皆、一様に豪奢な仮面をつけている。
 そして――

 ……悪趣味な騒音だ。

 皆、一様に、身体の一部を悪魔によって変質させられていた。

「御機嫌よう、神父様。きっと私にご用があると思いまして、お待ちしておりました」

 爬虫類じみた嫌な目の若い男が、恭しくそう告げた。

「紹介が遅れてしまいました。私がクラムカランでございます。そして周りにいらっしゃるのはこの劇におけるエキストラの皆様、といったところでしょうか」

 まるで演出家か脚本家のような口ぶりで、男は歌うように言葉を投げる。
 気に入らない。
 陶酔しきった口調も慇懃無礼な台詞回しも何もかも気に入らない。

「だったら主役が誰か知りたいものだね」

 苛立ちながら問うと、クラムカランはぎぃ、っと口角を上げて笑みを作り、思いもよらぬ名前を挙げた。

「それは勿論、そちらの……ザニー・クラウス様でございます」
「……え?」

 思わずザニーを見上げると、彼は今まで見せたことの無いような、怒りに満ちた顔をしていた。
 いや、怒り、だろうか、ともかく、眉を寄せ、歯を食いしばり、ただクラムカランを睨み付けていた。

「私は悪魔に身を捧げただけのただの人間でございますから、深い事情は感知しておりませんが、聞くも涙! 語るも涙! の物語ではございませんか」

 ザニーの喉から、低い声が漏れる。
 けれど、その音はろくに空気を震わせず、クラムカランの声にかき消された。

「優秀な兄を慕う弟! 悪魔に殺された兄に代わり、自らを屠ったザニー・クラウス! 兄が庇った少年との旅路に何を想うのか?」

 まるで甘言を演じる独裁者のような口ぶりで、陶酔しきった調子でクラムカランは笑った。
 その声はノイズを伴って、こちらの頭の中をかき回す。

「クラウス………………ハレルヤ・クラウス…………?」

 兄、弟、庇った、クラウス――。
 ずっと目を背けていた可能性。
 クラウスなんてそう珍しい苗字じゃないから。
 顔だって、あんまり似ていないから。
 この人がお前を助けてくれたのだと、昔見せられたハレルヤ神父の写真が、脳裏を過ぎった。
 この人がお前を助けて死んだのだと、昔見せられたハレルヤ・クラウスの顔が、脳裏を過ぎった。
 この人がお前の代わりに死んだのだと、昔見せられたハレルヤ・クラウスの顔の向こうで、ザニーが叫んだ。

「黙れって言ってんだろうが――!!」

 ザニーが叫び声とともに短剣を抜いた瞬間、ザニーはまるで操り糸を切られた人形のように、その場に膝を付いた。

「なん、で……」
「ザニー!」

 明らかに動揺した顔で跪くザニーを助け起こそうとした途端、周りの村人、いや、悪魔たちが一斉に襲い掛かってきた。
 まだ膝を付いたまま動かないザニーを庇いながら、悪魔を薙ぎ払う。
 幸い、村人の身体能力に影響されるようだ。多少力は強いが、一体一体はそう厄介なものじゃない。
 左腕を思いっきり振りぬいて2、3体振り飛ばすと、右から3体飛びかかってくる。  多勢に無勢とはよく言ったものだ。

「ザニー!」

 まだ呆けているザニーの名を呼ぶ。
 さすがに、他人を庇いながらではもう捌けない。
 さっさと目を覚ませ、と苛立ちながら、何度も名前を呼ぶ。

「ザニー!」

 何度目かの呼び声に、ザニーはピクリと肩を震わせた。
 そして、酷く不器用に立ち上がり――、
 短剣をこちらに向けて振りぬいた。

「……っ!」

 寸前の所でその攻撃をかわし、ザニーを睨み付ける。
 ザニーはどこか遠くを見ているようなぼんやりした顔で、けれど明確に害意を持って短剣を振ってくる。
 ああもう、まるで夢遊病患者みたいだ。

「ザニー!起きろ!」

 思わずそう叫んだ。

「ザニー!目を覚ましてってば!」

 いつの間にか勢いが死んでいた僕の拳をザニーは空いた手で受け止めた。
 そのまま地面に引き倒されると、ザニーは言葉と呼吸を止めようとするかのように、こちらの顔面を押さえつけてきた。
 苦しいし、腹立たしい。
 この馬鹿は、まだ目を覚まそうとしない。
 この馬鹿は、まだ、ここに居ない。
 苛立ちが頂点に達し、思いっきりザニーを睨み付けて、その鳩尾を全力で蹴り上げた。
 パキッと硬いものが割れる感触がわずかに靴底から伝わってきた。
 一瞬、ぎくっとしたが、この際だ、骨の一本や二本仕方ないだろう。この馬鹿が悪い。
 吹き飛んだザニーは、不恰好に転がったまま、動かない。
 さっさと目を覚ませ、ザニー・クラウス。
 もう、苛立っているのか、悲しんでいるのか、焦っているのか、よくわからない。
 綯い交ぜになった感情を、動かないザニーに叩きつけた。

「このわからずや! 僕と出会って、僕の隣にいたのは、ザニー・クラウスだ! ハレルヤ神父じゃない!」

 アンタなんか、ハレルヤ神父になれる訳ないんだ、弱虫め。
 アンタなんか、貧弱で鈍感で、馬鹿みたいにお人よしなんだ、ザニー・クラウスめ。
 だから、僕の隣に居たのは、居るのは、きっとアンタじゃなきゃ駄目なんだ、ザニー・クラウス。

 ザニーは緩慢な動作で上体を持ち上げると、赤く染まったポケットをきつく握り、鋭く叫んだ。

「高みの見物とっとと止めて、祭りに参加しろ、モレク!」

 同時に、悪魔の群れの騒音を切り裂いて、キンキンした声が耳を叩いた。

『けけっ、こりゃ驚いたぁ。敵である僕を捩じ伏せて契約しようなんて……馬鹿って言うか、怖いもの知らずって言うか』

 ザニーはそのキンキン声と二言三言、言葉を交わした。
 契約が完了したのか、ザニーは俊敏に立ち上がり、短剣から伸びた蔓を使い、村人の仮面を弾いていく。
 その様子を見て、クラムカランは肩を竦めて笑った。

「これは、これは。モレク様がそちらへ就くとは、想定しておりませんでした。ここは一旦、退かせていただきますよ」

 待て、とザニーが叫ぶが、クラムカランはすぅっと姿を消してしまった。
 辺りに倒れている村人に軽く目をやるが、どうやらただ気を失っているだけの様だ。

 ……こちらは、大丈夫。となると後は……。

 ザニーの方に目をやり、靴をトントン、とこっそり鳴らす。
 モレク、という名前があるらしい。
 名前があるという事は中級か上級。クラムカランの言動を見るに事情には詳しそうだ。

『あーあ、逃がしちゃった。まぁ、僕の役目はもう終わりだよね』

 ザニーから抜け出たモレクが去ろうとした瞬間を見計らって、踵を強く鳴らした。

『なっ!? ちょ、ちょっと、何これ!』

 赤い魔法陣が、モレクを取り巻き、鳥籠のような檻を形成する。
 よし、思惑通り、無事閉じ込められた。

「随分事情に詳しいようだね。話、聞かせてもらってもいいかな。はいか死かでお答えを」
『えー? それ拒否権ないじゃん!』

 モレクの批判の声をきれいさっぱり聞き流し、ゆっくりとザニーに近づき、にっこりと微笑みかける。

「あとザニー。今までのこと、洗いざらい吐いてもらうからね?」

 覚悟しろ、という言葉は、笑顔で飲み込んでやった。