当てずっぽうな就活をしている僕は、赤い夕暮れの中を一人で頼りなく歩いていた。今日は珍しく6時頃には家に帰れそうだ、と思いながらきつく締まったネクタイを緩める。スーツに慣れた、というよりスーツと共に自分がくたびれていっていることに気づいて嫌になってしまう。 深くため息をつくと、河原の方につい足を向けていたことに気づく。昔は僕もダンボールに乗って土手から滑り降りてみたり、河原に転がっているすべすべした石を見つけてはそれに絵の具で色を塗って人形を作ってみたり。……野球もしたっけ。目指せ甲子園! なんて、途方もないことを考えてる時期がやっぱり僕にもあった。万年補欠ではあったけれど。 それから水切りもよくやった。川の水面めがけて石を投げて弾ませるのは、野球と違ってわりと得意だった。反対に僕によくくっついていた妹は 「そおおおりゃああああー!」 そう、こんな大げさな掛け声つきで重そうな石を放り投げては一瞬で沈ませてしまって…… 「って、え?」 近場の女子校の制服をひるがえして、女の子が石を川に放り込んでいた。いや、女の子というのは婉曲にすぎた。僕の妹、真知(マチ)が海のバカヤローよろしく、 「川のバカヤロー!」 となにやらスケールの小さいことを喚いていたのである。 最近は就活の関係で起床時間や帰宅時間が全く重ならない生活をしていたので、真知の姿を見かけたのは本当に久しぶりだった。ワンピースタイプの制服に、勝気そうな長いポニーテール。背中から発せられる雰囲気はかなり険悪で、僕は声をかけようかどうか迷う。すると真知はスクールバッグから紙きれを取り出して、それを左右に引っ張って真っ二つに破いた。通常、紙と言うものは前後に引っ張ると容易く破けるが、左右に引っ張るだけで破るという芸当はなかなか難しい。我が妹もなかなかワイルドに育ったものである。 僕が感心していると、真知は何の前触れもなくわあん、と大声で泣き出した。何度もばか、ばか、と言いながら真知が泣いているものだから、さすがに僕も声をかけないわけにはいかなくなった。僕は土手を早足で降りて、川辺にいる真知の元へ駆け寄った。 「真知、」 「ばか、ばかぁ! ……って、へ?」 「真知。どうしたんだ。いくら人がいないからって、こんなところで大泣きして……」 「ユー兄?」 うさぎみたいな目がびっくりしたように僕を見つめる。それから、一拍置いて真知は口をひん曲げてううう、と唸りだした。 「ユー兄のあほんだらぁ! 夕暮れの川辺でヒロインが泣いてたら駆けつけるのはヒーローのはずなのに! 予定狂った!」 「なんだ、彼氏と喧嘩でもしたのか?」 僕がそう尋ねると、真知はスクールバッグに付けているアニメキャラのキーホルダーを指差した。 「画面の中の彼氏が三次元に出てくるわけないでしょー!」 「ええと……それはなんというか……」 妹の言葉にどう反応するべきか、と僕は口ごもってしまい、 「言葉を失うなぁ!」 と怒られてしまった。なぜ心配して駆け寄った僕がお説教を受けているのだろう。まぁ、僕は妹に説教をした試しなんて今まで一度もないのだけれど。 「とりあえず……ヒーローじゃなくて、ごめん」 真知のよくわからないけれどかなり熱のこもった気迫に負けて、僕は謝る。真知はジト目で僕を五秒ほど見つめたあと、 「…………許す」 と唇を尖らせながら言った。それから豪快に赤い目を擦った。 「腫れるぞ、擦ると」 僕がそう言うと、真知は自分の眼窩に強く手のひらを押し当てた。 「目って、潰れたら痛いのかな」 「……痛いよ、きっと」 やめとけ、と僕は真知の手を外させる。これは僕ら兄妹が幾度となく繰り返してきたやり取りだ。真知は嫌なことがあると「世界を見たくない」と目を潰そうとする。僕はそのたびに「痛いだろうから、やめておけ」とその場しのぎの言葉しか口に出来ない。もし真知が「痛いのなんて、怖くない」と言うようになってしまったらどうしよう、と僕は心の端に小さな危惧を持っていた。 「学校で、なんかあったのか」 握った真知の手をなんとなく離さないまま、僕は尋ねた。 「ユー兄といっしょ」 真知は僕のスーツ姿を揶揄するように言った。 「そうか。……やっぱめんどくさいよな、進路」 「どうして人間って呼吸してるだけで生きていけないんだろうね」 真知は僕とつないだ両手をせっせっせ、のヨイヨイヨイと振り始める。僕もその手遊びに応じながら話す。 「呼吸もわりとめんどくさいけどな、僕は」 「新発想きたね」 「結構カロリー消費するらしいよ、呼吸ってやつは」 「就職せずに呼吸ダイエット法とか考えて一儲けしたら?」 「残念ながら先人がいる」 「そっか」 「……呼吸はどうでもいいけど」 「ん?」 「言葉は失くしたくないなぁ」 伝える言葉を失ったら、僕はさらに無力になってしまう。アルプスに2回ほど無事に登って、僕らは手遊びを止めた。 「言葉、さっき失くしかけてたよね」 「あれは真知がいけないと思うんだけど」 「金髪でバスケ部男子でモデルとかすごいじゃん、理想じゃん」 「現実の男にそんなハードル高いこと求めないようにね」 「わかってますぅ」 全然わかってなさそうに真知は笑った。 「ユー兄も、今更甲子園目指しちゃダメだよ」 僕は虚を突かれた。小さい頃、僕が言っていたことを真知が覚えているなんて思わなかった。 「……はは、いつの話だよ」 苦笑しながら僕は足元にあった小石を一つ拾って、川へと投げる。小石は5回ほど跳ねて水底へ姿を消した。 「お見事」 「ピッチャーじゃなくて、水切り選手に憧れれば良かったかな」 「その種目があればの話だけど」 真知の言うとおりだ。まったく、僕は役に立たないことしか出来ない。 「……『これが最後の戦いです』」 僕は深いため息とともに、最近頭に引っ掛かっている言葉を口にした。 「なにそれ?」 「就職セミナーの講師による有り難いお言葉より抜粋。職に就けさえすれば、あとはどうとでもなるらしい」 「ならないよね、普通」 真知はばっさりと否定の言葉を口にする。 「僕もそう思う。最後の戦いの渦中に僕はいるらしいけれど、そもそも僕は何と戦ってるのか全然わからない。わからないものと戦うというのは、エイリアン映画と一緒でかなり不気味で底知れないよ」 したいことがなかったら生きていちゃいけないような、そんな世界に僕らは放り込まれている気がする。目的がないことに対して非難を受けるような、この世界。 「でもさ、どうとでもならない未来に行かなきゃいけないとしても、そういう世界に存在してるってことが嫌になっても、僕はどうしても生きていたいと思うんだよ」 「……ユー兄」 「生命活動なんかどうでもいいと思うけれど、僕という存在を手放したくないんだよ。色々な思い出と、感情的な妹を持っている片橋由宇って存在をね。だから生きていたい。……真知は、どう思う?」 僕はそう尋ねて、真知の言葉を待った。すると、 「――ユー兄の、あほんだらぁ」 震える声で、真知は言った。 「別にあたし、辛くなんかないんだから、めんどくさいだけなんだから。あたし、強いんだからね、別に優しい言葉とか、そういうの、いらないから。余計なお世話、だよ」 何度も手の甲で涙を拭いながら、真知は切れ切れに言葉を口にする。 「でも、しょうがないから、余計なお世話してくる兄貴の妹でいてあげるから」 感謝してよね、と真知は僕を睨みつけてくる。僕はそのちぐはぐさに思わず笑ってしまいそうになったけれど、かしこまって、ありがとう、と言った。 僕たちは、今度こそラストファイトにしてやるんだ、と思いながら、明日も明後日も、ずっとずっと戦い続けるのだろう。試合は常に劣勢。それでもきっと、僕は僕を維持するためにファイティングポーズをとるのだ。 「ユー兄」 「……何?」 「さっきの、『ヒーローじゃなくて、ごめん』が、わりとヒーローっぽかった」 「それは良かった」 僕はもう一度小石を拾って、川の水面へと投げた。 〈了〉 さて、灯りを付けてみましょう。 鍋の中に入っていたのは…… 蓬ケイ様の具材「最後の戦い」 露木理人様の具材「スーツ」 カメ吉様の具材「甲子園」 でございました。 ご協力ありがとうございました! |