その老紳士は、俺があくびをしていた真夜中に来店した。 俺がバイトをしているこのコンビニは、一月前に先輩たちがいっせいに辞めてしまったせいで深夜シフト要員が俺しかいないままどうにか回っている。つまり、俺はここ一ヶ月間深夜シフトの生活を送っていたということになる。夜の八時から明け方四時まで計八時間労働。それを認識してしまうと、一気に疲れが押し寄せてくるというのが人の性だ。 四月に入り、そろそろ大学も始まるのだが、この泥沼の夜型生活から抜けられる予感がまったくしないことについて、俺は見て見ぬ振りをし続け、所属している英文科の課題までも見て見ぬ振りをしつつある。 深夜シフト地獄になる前の成績は悪くない方だったので、これから始まる二回生の夏にイギリス留学をしてみてはどうか、と教授に勧められて、まだ答えを出せていないのも、見て見ぬ振りだ。 そう思いながらあくびをかみころすと、来店の音楽が流れて自動ドアが開いた。それによってコンビニの前にある首都高から車の音が大きく聞こえて、自動ドアが閉まったところでまた小さくなった。俺が反射的に「いらっしゃいませー」と言うと、カツン、と一歩踏み出す革靴の音がした。 この時間にやってくる客はたいていスニーカーかサンダル履きでやって来るので、ペタリ、という足音が多い。珍しい人もいるもんだな、と思って客の方を窺ってみたら、なんとそこには一人の老紳士が興味深そうに店内を見回している姿があった。 なぜ老紳士なんて仰々しい言い方をしたかといえば、その人物が姿勢良く黒いスーツを着こなし、中折れ帽子をオシャレにかぶり、ロマンスグレーの髪と碧色と言うべき思慮深そうな瞳を持った外国人だったからにほかならない。 現代はグローバル社会だなんだと言ったって、こんな深夜のコンビニにスーツを着た老紳士が訪れるとは誰が思うだろう。少なくとも俺にとっては夢かと思ってしまうくらい現実味がなかった。 老紳士はまず花見用に包装されたお菓子が特集されている棚を見つめて、熱心にパッケージを見つめていた。外国にはポッキーってないんだろうか、と思いつつその挙動を見守っていると、老紳士は最終的に桜の花びらが描かれているキットカットのパッケージを手に取った。 続いてアニメキャラクターとコラボしたくじ引きの棚に目を留め、とても不思議そうな顔をした。猫のぬいぐるみが一等景品だったので展示していたのだが、その猫が気になるらしい。老紳士は透明なビニールに包まれた猫のぬいぐるみを持ち上げ、こちらを振り返って質問してきた。 「すまないが、ちょっと質問してもいいかね?」 その質問の言葉が英語だったので、一瞬「うっ」と詰まりそうになったのだが、なんとか俺は英語で答えた。 「はい。商品についてですか?」 「ああ、この大きな猫のぬいぐるみは本当に五〇〇円で買えるのかい」 老紳士がくじ引きの内容が書かれたポップの「五〇〇円」の文字を示した。 「それはくじ引きの商品……「lot」です。その猫のぬいぐるみは一等賞が出たときにだけ、手に入れることができます」 俺がそう答えると、老紳士は少ししゅんとなってしまった。 「そうか……孫の土産にしようと思ったのだが、そうもいかないのか……」 なんだかその様子が可哀想になって、慌てて説明を付け加える。 「一応、このくじにははずれ、というものがないんです。この大きな猫のぬいぐるみは難しいかもしれませんが、この猫の柄をしたハンカチや文房具が当たる可能性はたくさんあります」 「テンノカミサマノイウトオリ?」 ふいに老紳士がカタコトの日本語でそう問いかけてくる。俺はイエス、と答えて苦笑した。老紳士も目尻にしわを作って微笑み、 「もう少し考えてみるよ」 と言って、猫のぬいぐるみを元の位置に戻した。 それから老紳士は駄菓子コーナーでスルメイカを二袋手に取り、スイーツコーナーで抹茶プリンに驚き、飲み物コーナーへ移動しようとしていた。すると老紳士の腕からスルメイカが一袋落ちてしまい、見かねた俺は入り口横に置いている買い物カゴを老紳士のところまで持っていった。 「これをお持ちください」 「おお、親切にありがとう」 そう言って老紳士がカゴの中にキットカットとスルメイカを入れたのを見届け、俺がレジに戻ろうとすると急に老紳士の歩幅が大股になった。 どうやら缶コーヒーコーナーに掲示しているキャンペーンのポップに食いついているようだった。なにやら強い衝撃を受けたようで 「これは……」 と感嘆の息を漏らしている。それから老紳士はソワソワと何種類もある缶コーヒーを見渡しながら、一つを手に取った。 どうやら老紳士は缶コーヒーの限定おまけになっているミニカーが気になっているようだった。しかし、どうやら老紳士のお目当てのものではなかったらしく、しきりに首を振っている。その様子がどうも普通の雰囲気ではなかったので、俺はもう一度声をかけた。 「どうかされたのですか?」 「……このミニカーは、」 老紳士はキャンペーンのポップに写っていた赤とクリーム色のミニカーを指さして言った。 「このミニカーは、どうやったら手にはいるだろうか?」 その声がひどく真摯で、切実な響きを持っていることに俺は気づいた。 「これはおまけ、「free gift」です。ですから、この棚に並んでいるものでしたらお好きなものを選ぶことができます」 けれど、と俺はそのおまけ付き缶コーヒーをざっと数える。横に三本並んでいるのが二列。昼間にだいぶん売れてしまったようだ。ミニカーの種類が全四二種類と書かれているので、かなり望みが薄い。 俺はもう一つカゴを持ってきて、残っていた六本の缶コーヒーを見やすいように並べた。老紳士と俺はその場にしゃがみ込んで一つ一つ缶コーヒーを手に取り、お目当てのミニカーを探すが、やはりなかった。 老紳士は落胆の色を隠そうとしていたが、その表情は余計に悲しげなものになってしまっていた。俺はなにか手はないかと考えて、ふと店内の時計を見た。時刻は一二時四五分。 一時には次の入荷があったはずだ。そのことに気づいて俺が老紳士に説明すると、 「本当かい?」 と老紳士は子供のように目を輝かせた。 とりあえず俺はレジ脇に休憩室のパイプ椅子を一つ広げ、老紳士に勧めた。老紳士は素直に腰掛け、俺はホットスナックの補充作業に取り組む。油の中に食材を放り込むと揚げ物の香りが広がっていく。油がはぜる音がする中、老紳士が俺に尋ねてくる。 「私はジェームズというのだが……君の名前を訊いてもいいかい?」 「俺は後藤と言います」 「ゴトー・ユージョー?」 謎の人名をジェームズ氏が口にする。だが俺はその人物に聞き覚えがあった。たしか小学校の頃に「歴史上の人物で自分と同じ名字の人のことについて調べてみましょう」というゆとり教育全開な授業の時に、俺が調べたヤツじゃなかったか。ということは、後藤彫りの金工、後藤祐乗のことかと思い至って、俺は 「いいえ、俺は後藤孝弘です」 とまるで英会話の本に出てきそうなちぐはぐな返答をしてしまった。俺は揚げ終わったホットスナックをガラスケースに並べ、その引き戸を閉めた。 「ゴトー、君は心優しい青年なのだね」 「いえ。深夜のコンビニなんてほとんどすることないですから」 「することがないからと言って、親切をしてくれる人はなかなか少ないよ」 「……ありがとうございます」 あまり褒められていることを否定するのも感じが悪いと思って、俺はそのまま礼を言った。 手持ちぶさたのまま自動ドアの外を窺うが、明るい店内が映り込んであまりよく見えない。微かに手前にある心細い街灯と、首都高を挟んだ奥の方でゲームセンターの明かりが煌々としているのが確認できるが、客の気配はなかった。トラックの姿もまだ見当たらなかった。 一二時五五分。きっと俺とジェームズ氏はここで会うのが最初で最後だろう、と考えて、思い切って俺は質問してみた。 「あのミニカー、なにか思い出があるんですか?」 どうしてここにやって来たんですか? でもなく、いつまで日本にいるのですか? でもなく。それよりも、先ほどのジェームズ氏の必死な表情の理由を俺は知りたかった。するとジェームズ氏は穏やかに、 「ゴトーから見た私は、どんな人物に見えるかい?」 と言った。ミニカーとどう関係するのだろう、と思いつつ俺は考えをまとめる。 「あなたはとても多義的な存在に見えます。天才博士のようでもあり、深遠な小説家のようであり、裏社会のボスのようにも感じます」 俺のその言葉に、ジェームズ氏は破顔し、胸ポケットのあたりを軽く叩く仕草をした。 「私の懐からは危ないものが出てくるかもしれないな」 「すみません、冗談が過ぎました」 「いやいや、結構」 ジェームズ氏は実のところはね、と話し出した。 「私はブレンド紅茶を開発する研究者だったんだ。化学成分から見た香りのブレンドや、それぞれの紅茶の香りのイメージをことばにして、それを頼りにブレンドしたりと色々なことをやってきたのだよ」 「香りをことばに、ですか。それはすごい仕事ですね」 「だが、私はずっとある事実から逃げ続けていたんだ」 「逃げる、ですか?」 俺は思わず怪訝な顔をしてしまう。まさか本当に裏社会の大物じゃないだろうな、と思っていると、 「いやなに、学歴詐称をして会社に入ってしまったのだよ。それが公にならないか退職するまで気にしていたのだが、なんとかなってしまった」 とジェームズ氏は言った。そして目を細めて、 「そのときに協力してくれたチャールズという男がいてね、その人は上流階級の息子だったんだが、私は下流階級の息子で子分みたいにくっついていたんだ。それに、彼が一番私のことを理解してくれていて、会社に入るとき、惜しみなく助けてくれた恩人でもある。そのおかげで今の私があるんだ」 懐かしそうにジェームズ氏は視線を遠くへ向けた。ジェームズ氏の語り口やその様子を見ていて、俺はその友人だったというチャールズ氏は、もうこの世にはいないのだろう、と黙り込んだ。 業務用冷蔵棚の音だけが店内に響く中、ジェームズ氏が、そう、ミニカーの話だったね、とぽつりと続け始めた。 「私がさっきミニカーに目を奪われたのはね、チャールズが私に初めてくれた誕生日プレゼントにそっくりだったからなんだ。私は粗忽者で、大人になってから何度か引っ越しを繰り返すうちに、いつの間にかそのミニカーを無くしてしまって……ずっと後悔していた。親友からの大切なプレゼントはもう、戻ってこないのだと。その事実に見て見ぬ振りをしたんだよ」 でも、あのミニカーを見つけてしまった。想いのこもったプレゼントを取り戻せないことはわかっているけれども、それでも取り戻したいなにかがあるのだ、とジェームズ氏が語り終えたところで、荷台の音が響いてきた。 自動ドアが開き「確認お願いしやーす」といつもの担当者が伝票を差し出してくる。俺は素早くチェックし、すべての商品があることを確認した。もちろん、あの缶コーヒーもあった。 「お疲れ様ッス」 「そっちもね」 一瞬だけ言葉を交わして、また担当者は「ありがとうござぁいやした〜」と荷台を転がし、出て行った。俺はジェームズ氏の方へ振り返る。 「見つかるまで、探しましょう」 「ありがとう、ゴトー」 俺は段ボール箱から缶コーヒーを取り出し始め、手に取ったミニカーの配色を確認した。まずは一本目、と思っていると赤とクリーム色のミニカーがビニールにくるまれていた。 「ジェームズさん、これ!」 俺は驚きながら、ジェームズ氏に差し出そうとしたのだが、その動きを止めざる得なかった。せっかく見つけた赤とクリーム色のミニカーは、なにかの弾みで端が少し欠けていたのだ。ジェームズ氏も気がついたらしく、じっとミニカーを見つめている。 「ほかにもあるかもしれません」 俺はそう言って、再び缶コーヒーを取り出し始めようとすると、ジェームズ氏がその手ををそっと止めた。 「いいんだ」 「でも……」 納得できない俺に向かって、ジェームズ氏は満ち足りた表情で、こう言った。 「テンノカミサマノ、イウトオリ」 *** 「私は明日、イギリスに帰るんだ」 会計をすませたあと、ジェームズ氏は言った。 「クール・ジャパンなものをたくさん見ることができた。名所もたくさん回ったけれど、このコンビニはとても興味深かったよ。桜柄の付いたお菓子や、干物まで手軽な値段で買え、くじ引きもできる」 そう語りながらジェームズ氏は猫柄のハンカチを楽しげに振った。 「そしてミニカーまで見つけることができた。ゴトーの親切に、感謝するよ」 ジェームズ氏が右手を差し出してくる。俺はそれに応えた。 「俺もやっぱり見て見ぬ振りはいけないんだなって、ジェームズさんのお話を聞いて思うことができたので、良かったです」 ジェームズ氏は苦笑して、 「パスばかりしていると、あとで苦しい想いをすることになるから、気をつけなさい」 と、俺の目を真っ直ぐ見た。たぶん俺は思慮深そうなこの碧色の瞳をずっと覚えているだろう。 握手の手を離して、ジェームズ氏は出口へ向かった。カツン、と革靴の音がして、自動ドアが開く。首都高は眠り始めていて、先ほどより車の音は聞こえてこない。 「では、ごきげんよう」 ジェームズ氏がゆっくりと歩き出したところまで見えたが、そこで自動ドアが閉まり、ガラス戸に映るのは店内にいる俺の姿だけになった。 俺はその姿を見つめ、明日には店長にバイトを辞めることを伝えなきゃいけない、と思いながらふいに出てきたあくびをかみころした。 〈了〉 さて、灯りを付けてみましょう。 鍋の中に入っていたのは…… 蓬ケイ様の具材「缶コーヒーの限定おまけ」 露木理人様の具材「老紳士」 でございました。 ご協力ありがとうございました! |