恵方巻き、というものをご存じだろうか。 正直なところ、僕は美波先輩からその話をメールで聞くまでその存在を知らなかった。なんでも関西地方を中心とした節分に行われる行事らしく、豆まきとセットにされているそうだ。なんだか「恵方巻き」なんて名前だけ聞いたら人が布団にぐるぐる丸まって幸せを感じる行事っぽく聞こえるけれど、どうやら違うらしい。なんでも「お世話になっている周りの人へ太巻きを献上し、献上された人は無言でそれを恵方という幸せがくる方角を向いて食すもの」なんだそうだ。人々の助け合いとか思いやりとか、そういったものを忘れないようにする、心優しい昔ならではの行事なんだなぁと僕は合点がいく。そして思ったのだ。そんな恵方巻きの話をしている美波先輩にこそ、僕は恵方巻きを送るべきなのだ、と。 *** そう決めてはみたものの、なんというか、盛り上がりに欠ける気がする。まぁ節分当日に寿司屋で太巻きを買って、美波先輩にプレゼントするだけでいいんだから、当たり前か。――そう思っていた僕は大変な浅はかだったのである。 「え? 売り切れ……ですか?」 「ああ、ごめんねぇ。節分はいつも多めに作ってるんだけど、すぐに売り切れちゃうんだよ」 「そう、なんですか……」 近場の寿司屋を回ったところ、なんと全敗という結果に終わってしまった。しかもそうやって見切りをつけずにウロウロしていたせいで、スーパーに置かれていた恵方巻きまでもがすべて姿を消してしまっている。 「なんという争奪戦……僕は今までこんな水面下の戦いを知らずに生きてきたのか……!」 ギリィ、と拳を握りしめ、少年マンガの主人公よろしく世間の厳しさを知って成長した顔つきをしてみた。でも一人だとこの遊びは虚しいことに気づいて、太巻きを手に入れる手段を考えようと頭のスイッチを切り替えようとした瞬間、車のクラックションが響いた。僕の身体は強い衝撃を受け、宙を飛んだ。 ここで僕の人生は終わってしまうのか! 美波先輩へ感謝の気持ちを込めて恵方巻きをプレゼントすることなく終わってしまうのか! 僕は悔しさにむせび泣きそうになりながら、気を失った。 *** 僕と美波先輩は高校の家庭部で知り合った。早く家を出たかった僕は、きちんと自活ができるように料理を覚えたくて家庭部に入ったのだが、案の定男子部員は僕一人だけで、周囲から浮いてしまった。 その頃の僕は人と視線を合わすのが億劫で、前髪を長く伸ばしていつも下を向いていて、自分で言うのもなんだけれど、薄気味悪い印象だったと思う。 家庭部、という名目なので当然料理以外にも裁縫を勉強する活動もあって、僕はこれが苦手だった。その日も僕は針に糸を通すために糸通しを使ったにも関わらず、糸を通すことに失敗し、あまつさえ糸通しを壊してしまうという惨事をやらかして、あたふたしていた。そんな時、誰かが僕の前にやってきて、手を伸ばしてきた。 「前野くん、これじゃ見えないっしょ」 僕は前髪を二つにかき分けられ、パチン、パチン、とピンで止められた。明るくなった視界に映ったのは、快活そうに笑っている美波先輩だった。美波先輩はポニーテールを揺らして、他の部員の人たちに 「ほらー、やっぱ前野くんは隠れ美少年だったよー!」 とトンデモないことを吹聴し始めると、他の女子部員たちも興味深そうに僕の顔を見にやってきて、おお、とか、わお! とか色々好き勝手に言っていった。人と目を合わせるのが得意でなかった僕は、突然開かれた世界に放り出されて、どうしたらいいかわからなくて、ただ、美波先輩の方を向いて助けを求めたのだが、先輩はなぜかVサインをピコピコとこちらに向けるばかりで、何にも言わなかった。 それから僕は部員の人たちと人並みに会話ができるようになりはじめて、美波先輩とも少しずつ軽口がきけるようになった。僕らは作ったクッキーをかじりながら、 「なんかさ、もうちょっと現実的な料理も学びたいよねー」 「そうですね、クッキーは主食になりませんから。煮物とか揚げ物とか、基礎ができれば応用がきくようなのがいいですね」 なんて会話を交わすこともあって、どうやら僕と美波先輩どちらもがなんとか自立したいと思っているらしいことがなんとなく伝わった。 僕はただ単に兄弟が多くていつまでも狭い家にいるのが鬱陶しかった、というのが自立したい理由だった。でも、美波先輩は選んだうえでの自立ではなく、いつ訪れるかもわからない「ヒトリボッチ」に備えた、強制的な自立のために家庭部で学んでいたのだと僕は彼女が卒業する間際に知った。 美波先輩の卒業式の日、僕は桜型のクッキーを作って彼女に渡した。僕が母や兄弟たちにつまみ食いされて随分量が減ってしまった、と愚痴をこぼすと、先輩はふふ、と笑って言った。 「前野くんのお母さんみたいに何人も子供産んで、家族増やして、ずっと一緒にいてくれるような人があたしのお母さんだったらなぁ。あと家族ほっといて出て行かない父親も」 「先輩……?」 「あたしのお母さんはすっごく体弱くて。今は自宅療養してるけど、たぶんあと何年かしたら、あたしを置いていっちゃうよ」 「すみません、僕、今までずっと無神経なこと言って……」 「ううん、いいんだよ。そういうのは。ただ、あたしはもうちょっとでヒトリボッチになっちゃうから。なんていうか、誰かと一緒に暮らしていることをそんなに嫌がりなさんなよ」 美波先輩は桜の木を見上げて、それから僕を見た。 「クッキーありがと。大事に食べるよ」 それ以来、僕と先輩はメールのやり取りだけで顔を合わせることはなかったのだ。 そんな僕に訪れた、恵方巻き、というささいなきっかけ。あの卒業式の時に言えなかったことを僕は言いに行こう、と思っていたのに、どうしてこんなことに。ああ、最後にもう一度美波先輩に会いたかった。 *** 「あれ、前野くん。気がついた?」 「ふがっ」 僕のすぐ目の前に美波先輩の顔があった。 「せ、先輩! どうして」 「もう、駄目だよー、前野くん。ちゃんと身分証明書持ち歩かなきゃ」 「みぶんしょうめいしょ?」 僕は目を白黒させてしまう。戸惑っている僕に先輩は順序立てて説明してくれた。 「君は事故に遭って病院に運ばれたの。で、連絡先が分からなかったから看護師さんたちが何か手がかりがないかって探したら、私の家の住所と自宅電話の番号のメモが出てきたんだって」 「あ、う、それは、大変なご迷惑を……」 「確かにびっくりしたけど。大丈夫? しばらくは松葉杖生活みたいだよ?」 「いえ、そんなに痛みは感じないので……本当にすみません」 「いいよ。色々疑問はあるけどさ。あ、今更だけど、久しぶりだね。今、大学一年だっけ」 「は、はい、もうそろそろ二年になります」 再会した美波先輩はポニーテールではなく、髪をバレッタでまとめて結っていた。化粧も薄くしていて、確実にその姿は大人の女性に変化していた。それでも僕は美波先輩に懐かしさを覚える。気さくな口調が僕を安心させてくれるのだ。そんな美波先輩が、 「あのさ、寿司屋の前でぼーっと立ってたとか、恵方巻きを探し歩いてたとか、なんか妙な事ばっかり警察の人から聞いたんだけど……ええと、あの、もしかして、だよ?」 と、少し肩をすくめておそるおそる尋ねてきた。 「もしかして……あたしが送った恵方巻きのメール、気にしてくれちゃってたのかな」 「いやあのそれは……それは……そうだったんですけど……先輩にはお世話になってるし、でも、恵方巻きが見つからなくて」 「ごめんっ!」 しどろもどろになっていると、先輩はパンっと勢いよく手を合わせて僕に頭を下げた。 「え?」 「あの恵方巻きの話、半分嘘なの!」 「う、嘘? ど、どの辺りがですか?」 「お世話になっている人に贈るっていうのが」 うわぁ。僕が気にしてたポイントそこだったのに。 「本当は、ただ単に太巻きを恵方に向かって無言で食べるだけ行事なの」 「そうなんですか……。…………。そうなんですか……」 「ごめん、ホントごめんね!」 「いやぁ、いいんですよ……ははっ」 まさに踏んだり蹴ったり。辛い思いをして、恵方巻きは手に入らず、しかもその行事の根本定義が間違っていたなんて。僕はショックで「ソウナンデスカ」しか言えなくなってしまった。すると先輩がぽつり、と呟いた。 「でもね、ちょっと期待してたんだ」 美波先輩は何を言い出すのだろう。僕はぽかんとしたまま静止する。 「ただ、嘘ついたわけじゃないんだ、あたしも」 すらりとした手が、僕の手を優しく包んだ。 「騙されやすくて律義な前野くんが、今年の節分に恵方巻き持って遊びに来てくれないかなぁって、そう思ってたんだよ」 「先輩……」 「そしたら、前野くん、事故なんかに巻き込まれちゃって。最悪だよね、あたし」 握られた手に、ぽとぽとと温かい雫が落ちる感触がして、僕は慌てる。 「僕が間抜けだっただけですよ! 先輩はなにも悪くないです。それに」 僕は美波先輩の手を握り返した。 「それに、僕もチャンスだと思いましたから。また先輩に会えるきっかけができた、って。メールでは何度もやり取りしてましたけど、それはやっぱり「会う」ってことには遠く及ばないというか……しかも「会う」って行動はメールの何倍も、何十倍も勇気がいることで、僕は意気地なしだから、それができなかったんです。でも、ちょっと段取りは狂っちゃいましたけど、先輩に今日また会えて良かったです。良かったと僕は思ってます」 頼りない僕は、きちんと想いを言葉にできないけれど。それでも、何かが伝わっていればいい。 そう思って美波先輩の顔を見ると、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。 「う゛う、ま゛えのく゛ーん」 「せ、先輩? なんだか色々大変な事になってますよ! ほら、テッシュどうぞ」 「ずびー」 美波先輩は鼻をかみ終わると、紙袋を取り出した。 「あれ? 先輩、それは……」 僕が紙袋から取り出された長細い包みを指差すと、神妙な顔つきで美波は言った。 「例の物でございます」 そうして包みを開くとそこには、 「これが僕の探していた、恵方巻き……!」 大きな太巻きが二本納められていた。 「お昼食べ損ねちゃったでしょ? 私もまだ食べてなくって。一緒にどう?」 「いいんですか?」 「いいに決まってるでしょ。あ、食べてる間は無言だからね」 「……難しそうです。あ、恵方ってどの方角のことなんですか?」 「あっ! 毎年変わるんだけど、今年の方角調べてない!」 それじゃあどうすればいいんだろう? と僕が首を傾げていると、美波先輩は急に松葉杖の方へ歩み寄り、こんこん、とそれを叩いた。 「うん、ちょっとのことじゃ壊れないわよね、松葉杖なんて」 「え、先輩、何を」 松葉杖を真っ直ぐ立てて、先輩は、 「恵方の方角どーっちだっ!」 ぱっ、と手を放した。ようは道に迷った時に木の棒でよくやる「神様の言うとおり」だ。がらんがらん、と派手な音を立てて松葉杖は転がり、その先は北北西を示していた。 「よし、あっち」 「ええっ!? そんなので良いんですか恵方って!」 「いいじゃない、当たるも八卦当たらぬも八卦」 「絶対違うと思うんですけどその使い方」 「はい、じゃあ食べまーす。お口にチャックー」 チャックしたら食べられないんじゃないか、とか色々思ったけれど、僕は美波先輩に従うことにした。そして僕は無言で太巻きにかじりつき、 「辛ッ!?」 一口目で僕は恵方巻きという行事から脱落した。酢飯とカンピョウとデンブとウナギとシイタケと卵焼きまではわかるけど、なぜ太巻きにワサビ漬けが。しかも大量に。 「ロシアンルーレットか何かなんですか、恵方巻きって……」 僕はヒリヒリする口を押さえながら、先輩に問いかける。 「え? ワサビ漬け入れるでしょ、普通。って、あ、喋っちゃったじゃない!」 「ああ、すみません」 「もう、前野くんのせいで幸せゲットし損ねちゃった」 美波先輩が残念そうに少し拗ねた口調で言う。僕が再び謝ると、先輩はコロッと表情を切り替えて悪戯っぽく、 「これはもう、前野くんに責任を持って幸せにしてもらわなきゃだよねー」 と言ってワサビ味のキスを僕にした。 ピリピリする味覚にクラクラする頭で、僕は「はい」と答えた。 〈了〉 さて、灯りを付けてみましょう。 鍋の中に入っていたのは…… 蓬ケイ様の具材「松葉杖」 磯辺おもち様の具材「恵方巻き(辛い)」 でございました。 ご協力ありがとうございました! |