錦市場で買い物を済ませ、私は帰路についていた。 京都の町並みは東京と違って整頓されていて、いくつめの角をどっちに曲がったかさえ覚えていれば、迷う心配なく探索ができて楽しい。どうせ年越しは一人だから、気の済むまでふらつこう。 ――と、思っていたのだが。 「こ、ここはドコですか……!?」 おかしい。どうして私の前には、ぐにゃりと蛇行した坂道があるのだろう。町並みは昔懐かしのアーケード街のようだが、「流星酒、有リマス」や「蜜柑硝子/一組八百円」なんて看板が踊っていてどこか様子が変である。坂の頂上を見上げようにも道は大きく曲がりくねっていて、先の方はようとして知れない。妙に赤い色をした提灯がアーケード街の軒先にずらりとぶら下がっており、今年の干支に合わせた飾り付けなのだろう、そのどれもに墨で「辰」と書かれている。 「いやいや。こんなみょうちくりんなトコロはごめんですよ」 私は突然現れた異空間に圧倒されていた気持ちを引き戻し、スカートを翻して今まで歩いてきた方角を振り返った。するとそこには京都の町並みではなく、ただ商店街アーケードが広がるばかりなのであった。 「いやはや、なんということでしょう」 くたびれたおじさんのような「いやいや」という言葉が私の口癖なのだが、このときばかりは驚きのあまり古風さがレベルアップしてしまった。おそらく、イマドキ老紳士でも言わない。 私は錦市場で買ったお総菜や、一人鍋用の具材の入った袋を両手に抱え、呆然としてしまった。他に私が持つものといったら小さなポシェットとその中に入ったがま口財布、さらにその中に入った四百七十五円だけだった。 いやいや、携帯電話を忘れてはならなかった。私は二つ折りである桃色の携帯電話を開いた。これならば助けを呼ぶことも可能だろう、と思い電話帳を開き、そして絶望に打ちのめされた。京都に下宿し、学生生活をひっそりと営んでいた私は一人ぼっちで昼食をとることがなくとも、電話番号を教え合うような友人がいなかったのである。携帯電話のメモリーには故郷の母君、父上の連絡先と同じく地元で感動的な別れをして以来まったく連絡が途絶えてしまった元・友人たちの電話番号しか残されていなかった。私の携帯電話はかけることも鳴ることもないただ携帯するだけの電子機器だったのである。 「おい、そこの嬢ちゃん」 それにしてもこのアーケード、人通りがなさすぎる。私は辺りを見回して、人っ子一人いないことを確認した。人がいなければ道を聞くこともできない。 「もしもーし、聞いてんのかー」 私は少し思案して、結論を出した。 「とにかく、道を下ってみましょう。別に今私の隣には断じて肌がちょっと鱗っぽくって、人間とは思えない感じの爬虫類みたいな瞳孔をして、半纏姿のお兄さんなんて存在するわけないんですから」 「ばっちり見えてるだろ!そればっちり見えてるだろ俺のこと!」 「どこかに人間さんはいらっしゃいませんかー、よくわからない、しっぽとか生やしてない人間さーん!」 「っかー!せっかく親切に声かけてやってんのに!これだから人間ってヤツはよぉ!」 そう、私の隣にはみょうちくりんなアーケード街にふさわしい、みょうちくりんな男が立っていたのである。年越しに浮かれた若者かもしれないと思いつつ、メイクにしては肌の鱗の質感がリアルすぎる。しかも紐を通した段ボール箱にガラクタのようなものを詰め込んでお弁当売りさんのように下げ、紺色のの地に「福龍商店 年越シ用ノ幸セ/470円〜」という白地の文句が書かれた幟を背負い込み、なぜだかその幟のてっぺんには季節外れの風鈴がちりん、と鳴っている。 「いやいや、どうせ本当なら私が見ちゃいけないものなんでしょう、アナタ」 「察しがいいな、お嬢ちゃん。その通り、何を隠そうこの俺様は!」 「隠すのに名乗っていいんですか、それ。まぁ……龍神さんかとお見受けしますが」 「な、なぜ知っている!」 「いやいや、見ればわかると言いますか、私のおばあちゃんから聞いた話がありましてね。……辰年を迎える年越しの夜に京都の町をうろつくと、ふいにヘンなアーケード街に迷い込んで、やたらテンションの高い龍神さんに会うから注意するのよ、と教えられていたことをアナタを見て初めて思い出しました」 「そのピンポイントのバッシングにマイペースな話しぶり……まさか……嬢ちゃんの婆様ってのは、もしかして君江ってんじゃねぇか?」 「はい、そうです。伊勢垣君江と言いまして……あ、私は伊勢垣愛子と申します。来年を幸せな年にしてくださいね、なむなむ」 「どうりで調子が狂うと思ったら……おい、柏手を打って俺を拝むな」 「ありがたや、ありがたや。……はい、ということで失礼いたします」 私が一礼して足早に去ろうとすると、龍神男はガラクタ箱をがちゃがちゃいわせて、私の後を追ってきた。 「待った、待った!」 「なんです?」 私が足を止めると、龍神男は目をキラキラさせながらこう言った。 「商売させてくれ!そして小銭!小銭くれ!チャラチャラ綺麗な音がするヤツ!」 「アナタもマイペースじゃないですか」 違った、目がキラキラじゃなくて、お金のマークでキラキラしていただけだった。 「あいにく、今は四百七十五円しかないので」 「それは百円玉四枚に十円玉二枚に五十円玉一枚に五円玉一枚ということか!」 龍神男のあまりの食いつきぶりに引きつつ、私は、はい、と返事をした。 「ならば迷うことない!これをオススメする!」 ガラクタ箱をひっかき回して龍神男はもふもふとした何かを取り出した。片手でつかめる大きさ、白目の多いたれ目だけれどぎょろっとした目、緑色の体におなかが黄色とピンクの縞々模様。これは、 「……がちゃぴ」 「違う!龍のぬいぐるみだ!」 「いやでもどう見ても髭のついたがちゃぴ」 「龍だから!」 よくわからないが龍のぬいぐるみのようだった。 「これに話しかければアラ不思議!お友達を呼び出せる優れもの!」 「へぇ、こんなナリなのに電話機能付きですか」 私は試しに操作しようと、龍のぬいぐるみを手に取った。 「……ただし、人外に限る」 「危なかった!」 「もがっ」 悲鳴を上げて私は龍神男の顔にアブナイ携帯電話機能付きの龍のぬいぐるみを叩きつけた。 「びっくりしました。危うく人外魔境できちゃうところでしたよ!」 「神の顔に物を投げつけるのは危なくないのかこのヤロウ……!」 「ああ、失礼しました」 「ったく、人外人外ってそんな怯えることねーのによ……」 龍神男は少しすねた調子で言った。ぬいぐるみを拾い上げ、その顔をむにゅむにゅと押しつぶし、もう一度私の前に突き出した。 「四七〇円」 「はい?」 「底値だ」 龍神男はきっぱりと言ったが、私にそんな物は必要ない。 「いやいや、それは……」 と私が断ろうとすると、 「年越しの幸せ付きだぞ」 と龍神男がつけ加えた。私はその言葉に自分の気持ちが暗くなっていくのがわかった。 「年越しの幸せ……? そんなもの、ないですよ」 「え?」 「お父さんとお母さんが喧嘩して……別居してるから、どっちかの家に行くしかなくて。でもそういうのがイヤだから京都でこの通り、年越しにも関わらず、誘いの電話一本もかかってこない、鳴らない携帯電話しか持たずに、一人ぼっちで過ごすしかないんですよ。そんな私にどうやって年越しの幸せがあるっていうんですか……?」 「愛子……」 唐突に、突風がアーケード街を吹き抜け、音楽が遠くから聞こえ始めた。 「お囃子……?」 「げ、もうそんな時間かよ。ちくしょー、小銭は諦めるか。……ほれ」 私の手に龍のぬいぐるみが押しつけられた。愛嬌のある、もふもふとした手触りのぬいぐるみ。 「あ」 ぬいぐるみから龍神男へと視線を向けると、龍神男は先ほどのみすぼらしい半纏姿とは似ても似つかない、豪奢な着物を纏っていた。 「次は絶対、小銭をいただくぜ。あのチャリチャリした音は最高だからな」 お囃子の音がどんどん近づき、坂の下から猛スピードで駆け上がってくる錦の龍を模した旗が、色の洪水のように私へと押し迫った。 *** 気がつくと、自分のマンションの玄関に私は倒れていた。真っ暗な部屋には当然、誰もいない。 私はのろのろと起き上がり部屋の電気をつけた。手を洗って、うがいをし、台所に立つ。鍋の具材用のねぎ、白菜、鱈、人参、しいたけの準備を終えて、テーブルに簡易コンロをセットする。ガスボンベの買い置きもばっちりだった。食卓にはお皿が一つ。箸も一つ。そして龍のぬいぐるみが一つ。私は行儀よくお座りしたぬいぐるみを指で小突いた。 「ねぇ、誰かいないの」 そう呟いてみると、なんだかすごく情けない気持ちがこみ上げてきて、私は柄にもなく涙してしまった。今まで私が家族と一緒に過ごしてきた年越しが、こんなに焦がれてしまうくらい幸せなものだったのだと今更気づいた。私は馬鹿だ。大馬鹿だ。 ふいに、コツコツという音がした。ここは六階だというのにベランダの外から誰かが窓を叩いている。私がカーテンを開けると、そこにいたのは、 「ずいぶん早いお呼び立てだな」 鱗の肌をして、爬虫類みたいな瞳孔をして、しっぽの生えた半纏姿の男だった。ちりんと季節外れの風鈴が鳴った。私は涙を拭いて、言う。 「いやいや、お鍋を作りすぎちゃったので、困ってたんです。一緒に食べませんか?」 龍神男は 「なんで蕎麦じゃねぇんだよ、変わったヤツ」 と笑いながら私の頭をなでて、鍋の煮えた食卓に座った。 〈了〉 さて、灯りを付けてみましょう。 鍋の中に入っていたのは…… 蓬ケイ様の具材「(携帯電話機能付きの)龍のぬいぐるみ」 夏月なこ様の具材「鳴らない携帯電話」 イズキ様の具材「錦」 でございました。 ご協力ありがとうございました! |