このページは伊坂幸太郎著『死神の精度』という小説作品の感想文ページになっております。
大まかなあらすじや結末部分など、ネタバレ要素にも触れておりますので、
あらかじめ『死神の精度』をお読みになった上で閲覧いただければ幸いです。










『死神の精度』伊坂幸太郎著/2008年2月/文藝春秋刊/文庫

 私が書店員なら、平積にしておきたい小説である。本好きに読んでもらいたいと思える内容においても、陳列棚を華やかに見せるという意味でも、とても優れた作品だ。
 内容に入って行く前に、そのスタイリッシュな表紙の話を少ししよう。この真っ青な表紙にどんな意味があるのか。出版関係者の話で聞いたことがあるのだが、印刷物において思い通りの「赤」や「青」の色を出すことは非常に困難な作業だという。それでもやはり、この『死神の精度』の表紙を飾る色というのは青しかないと私は感じるのである。
 作中のストーリーテラーである死神・千葉が「雨男」(雨=水=青のイメージ)であること、さらに千葉がかなりクールな、あるいはドライな物の見方をすること(寒色イメージ)などを考えると、死神の出てくる話だからと言って安易に生と死を連想させるだけのモノクロの表紙にしなかったのは、きちんと内容のことを考えて装丁されている証拠だと思う。
 また、表紙含め目次、扉絵の写真もお洒落で手に取って眺めていると自分の家においてもいいかな、と――ちょっとえげつない言い方をすれば購買意欲をそそられるということだ――思ってしまうのである。
 しかしある一定のユーザーがこの作品に対して足踏みをしてしまうことも確かな事実である。何が原因か? 理由は単純で、『死神の精度』は帯で把握できる内容情報に「主人公が「死神」である」と明らかにしている。この「死神」の存在に突拍子もなさを感じてしまう、主に年輩の読者が「若者向けの作品か」とこの作品をスルーしている場面を何度か図書館で私は目撃していた。だがそれはとてももったいないことなのである。
 この連作小説には、ラストに「死神対老女」という話が収録されている。タイトルの通り死神が死を迎えるべき人間か否かを判定するために老女の元を訪れるのだが、この老女、死神の正体をほぼ正確に見抜く。老女は口調が若々しくてさばさばしており、終始死神は押され気味感があるところがなんとも言えない間抜けさを伴っていておもしろい。
 ここからがようやく本題なのだが、老女の正体が分かると最初から読み進めてきた「死神の精度」から始まった世界の時流が掴める仕組みになっている。死神の視点でこの最後の話までを読んできた読者は、あっという間に約半世紀くらいの時間を歩まされていたことに気づくのだ。そしてこの時間の流れの描かれ方は、伊坂ファンの多い若者世代よりも、さらに上の世代の方々が納得する書き方なのではないかと私は思うのだ。
 また、この作品をジャンルに分類する際に、ある人はエンターテイメント、ある人は推理もの、と言うだろう。推理ものの定義はここでは緩く「謎解きをすることによって進んでいく、あるいは終わりを迎える物語」としておく。この謎の種類も問わないで話を進めていきたいのだが、そういう視点で作品たちを見ていくと謎、謎、謎である。
 謎のクレーマー、洋館での謎の殺人事件、謎のセールス電話。警察が取り扱わなければいけないような事件と「なにか変だな」という日常の謎に死神は巻き込まれ続けていく。それはもしかしたら人間という存在そのものが「謎」であることを示唆しているのかもしれない。そして死神たちのルールによるトリック、あるいはそれに対する謎解きも盛んに行われている。……と、こんな書き方をすると複雑怪奇な物語かと思われるかもしれないが、主人公である千葉が冷静な性格であるが故に事件は交錯しながらも、あまりこんがらがることはない。すっきりと謎は解決されるである。
 しかし、結末がわからない終わり方をしている物がいくつかあることも注目したい。「死神に吹雪」なんて殺人犯を野放しで雪景色に見とれて終わってしまう。これは千葉の人間への興味のなさが引き起こす一種の放任である。それがまた死神の特殊性を醸し出しているのがにくい。
 そして今この文章を書きながら一つ気がついたことがある。この「死神の精度」に収録されている作品群すべてに「電話」が必ず登場している。クレーマーからの電話、助けを呼ぶ電話、使えなくなった電話、セールス電話、母親がしている電話、息子からの電話。どれも物語を進める上で欠かせない位置に「電話」が入れ込まれている。
 電話と言えばやはり人々の繋がりを象徴するものではないかと私は思う。他人との繋がりに苦慮している人々の描写は、この飄々とした『死神の精度』という作品の中でも静かに訴えるものとして息づいているように私は感じた。


〈了〉