この小説は三人称視点で物語られている。だが、ただの平坦な三人称ではなく、場面ごとに――あるいはもっと細かく行変わりごとの場合もあるが――焦点の当てられている人物の心象に寄り添った文体で物語を進めている。だから主役として中里鮎太朗という人物が設定されているにもかかわらず、いくつかのシーンでは鮎太朗の心の動きが描かれない(仕草などの描写で推し量れる範囲ではあるが)ことがある。 どうもこの主人公・鮎太朗くんはふわふわふらふらしていて、浮き草のような印象を受けるのだが、おそらくそれは心の動きを全て開示されていない(あるいは肝心な場所がズラされて開示されている)存在であるからだと感じる。また、ふらふらな印象を与えるもう一つの要因として、彼が次から次に女性に好かれては捨てられ、を繰り返すことが挙げられる。なぜそんな運命を彼は背負い込んでいるのだろうか。 作中の女性たちは鮎太朗に夢中になる。そしてそれぞれのきっかけで行動を起こし、鮎太朗の元を去っていくか(コドリさん、サッちゃん)、あるいは鮎太朗自身から去ることになる(江口さん、花園さん)。 何人も出てくる女性陣の中でも、鮎太朗と深く関わったコドリさんとサッちゃんはどちらも去っていく人間で、よく読むと彼女たちが去っていくきっかけには毎回テンテンの影があることはポイントかもしれない。 コドリさんはテンテンに公民館で殴り込みをかけられ、サッちゃんはクレープを一緒に食べようとテンテン誘われたときに「自分のやるべきことがわかった」と決心してしまっている。このことから一貫してテンテンは意識的、あるいは無意識に関わらず鮎太朗と結ばれるべく行動し続けていたとも言える。 また、コドリさんとサッちゃんはどちらもオタク文化で言うところのヤンデレという属性を持っているように感じた。コドリさんは痛みによって愛し、愛されの関係ができると思っているし、サッちゃんはことあるごとに死ぬことを考えている。もっと言ってしまえばテンテンのあの執拗さもヤンデレ属性のものかもしれない。つまり鮎太朗はヤンデレ属性の女性に好かれる「何か」を持っている人物であると考えられる。 ではその「何か」とは何なのか。鮎太朗を紹介する文で 「目を伏せている彼は、人々の同情を買う。その自信なさげなようすが、それぞれの遠い昔の、やさしい思い出を呼びおこす」 というものがある。鮎太朗も「意志の弱い人間なんだよ」と自身を評している。この自信のなさそうな、意志の弱い人間のどこに女性陣は惹かれるのかを考えながら読んでいると、鮎太朗の言葉からどうも自分の中身が希薄であるということに対してのコンプレックスを感じるのである。 中身が希薄、ということはこれからどんな色にも染まってしまうということだ。ヤンデレの決まり文句で「あなたは私のことだけ考えていればいいの」というものがある。これは相手を「わたし色」に染めたいと願う欲望であり、そうするには中身が最初から入っていては邪魔である。すると、中身が希薄な鮎太朗はヤンデレ属性の女性陣から見れば非常に好都合だ。実質彼は自分を刺したコドリさんのことも、30万4千円のネックレスを買わせたサッちゃんのことも、非難するどころか庇うくらいに洗脳されている。 余談だが鮎太朗から立ち去っている江口さん、花園さんはどこか彼の容姿にばかり目がいっている印象を受ける。反対にテンテン、コドリさん、サッちゃんはおそらく鮎太朗が「それぞれの遠い昔の、やさしい思い出を呼びおこす」存在だと言うことに気づいているように思う。 そんな鮎太朗を追いかけ続けるテンテンの恋愛観もやはり病的だ。付き合っていた慎平に別れを告げるシーンで「つまりその……自分の命をかけられるくらい、好きだとは思えない」と言う。君は少女マンガを読みすぎた中学生か! と突っ込まざる得ないくらいに恥ずかしいことを非常に真剣に語っているのである。さらに続けていくと「嘘の恋なんか、嫌だ」と言い切ってしまう始末だ。テンテンにとって鮎太朗以外の人間との恋愛は嘘であり、無益なことなのかもしれない。この「私とあなただけ」という非常に狭い視野を持っていることもヤンデレの特性として挙げられる。個人的にこのテンテンに対して「わかったよ、じゃあ俺は今からテンテンに命をかけるよ」と言ってしまう慎平、かなりデキた男だと感じる。 閑話休題。話に戻ると、このテンテンが東京に行った鮎太朗に「早く帰ってきて」と言うラストだが、この「帰ってきて」は距離的なものだけではなく、この作中で起きた出来事を経ても、鮎太朗の帰る場所は最終的にテンテンなのだということを予感させる。そういう答えを鮎太朗は「知っている気がし」て、「それが、長く求め、待ちわびた割りには、ろくなものではない」と思ったのではないだろうか。 つまりヤンデレ属性の女性陣に好かれる鮎太朗は、希薄な心を抱えていたが故に愛され、傷つけられ、自分自身でないものとして定義されて生きてゆく運命だったのだ。鮎太朗は「鮎太朗」という存在を確立できないまま、「常に誰かの弟であり息子であり友達であり彼氏」であり続ける。その呪縛をタイトルの『わたしの彼氏』という言葉が物語っているのではないだろうか。 〈了〉 |